小説

『ふれた』白井綿(『お階段めぐり』(長野県))

 歩き始めてどれくらい時間が経ったのか、男にはわからなくなっていた。
 真っ暗闇の中では方向もさることながら、時間の感覚までもがなくなってしまうのだ。代わり映えのしない視界の中に、男はふと右手を伸ばす。すると手にヒヤッとした固い感触が伝わった。「壁か」
 暗闇の中で、突然すがるものが出来た安心感から、男の足取りは先程よりも確かなものになる。
 ドン、と何かにぶつかった。
 明らかに壁とは違う、温かく柔らかい、何か生き物のような感触。
「ひゃあ」と、情けない声を上げた男は、同時に自分以外の同じような声を聴いた。
 誰かいる。
「すみません!すみません!どうか見逃して下さい!」
「ごめんなさい!ごめんなさい!どうか見逃して下さい!」
 男が気付いたのと同時に、彼よりやや低いもう一つの声が上がる。先程までシンとしていた空間に二つの慌てふためいた声が響き渡った。
「すみません、まさか自分以外に誰かいるとは思わなくて」そう言ったのは少し落ち着いた男。
「いえいえ、こちらこそすみません」と相手も言う。
 お互いが相手を警備員かと思い平謝りしていたのだが、どうやら違ったようである。まさか自分以外の誰かがいるとは思ってもみなかった二人の間に、同志のような空気が生まれた。
「実は、鍵を探しに来たんですが、なかなか見つからなくて」
 姿が全く見えない闇の中から発せられる柔らかい口調は、何故だか男を安心させ、「どうですか?こんな風に出会ったのも何かの縁だから、一緒に探しませんか?」と言っていた。相手も同じようなことを考えていたのか、「ぜひ!」と答える。
 こうして暗闇の中で出会った二人は、連れ立って鍵を探すことになった。

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