小説

『オシラサマ異聞』川音夜さり(『オシラサマの伝承』(東北地方))

 俄かに垂れ込めた黒雲が冷たい雨足を運んできた。渓流沿いの山道は泥濘と化し、旅装束の弥次郎は歩を進めるのに難儀していた。近道をしようとして、かえって道を誤ったのだ。刻限もよくわからないが、とっくに日が傾く頃合いだろう。どうにか人里に降りられなければ死を意味するが、到着を見込んでいた横田の城下までどれほどかかるのか、弥次郎には見当もつかなかった。
 自身の迂闊さに苛立ちながら、弥次郎は風で飛ばされそうになった編み笠を抑えた。顔を上げると、いつの間にか山道を抜けたことに気づく。不意に視界が開けた。目の前は山に囲まれた狭い開墾地となっており、何軒かの民家が見えた。そのうち一際大きな屋敷は厩を併設した立派な曲り家で、その格式の高さは庄屋様を思わせた。
(助かった……!)
 弥次郎は藁にも縋る思いで屋敷に駆け寄った。敷地内には蔵や納屋が立ち並び、屋敷裏の山際には桑畑が広がっている様子で、暗がりの中でもかなりの広さと認められた。養蚕で財を成した富農であるらしい。
 母屋と厩が一体となった造りの曲り家は、厩の部分が突出した形になっている。双方の屋根が交わって谷になっている「洞前」が表玄関となっていた。弥次郎は屋敷の戸口に近づき、声をかけた。すると住み込みの奉公人らしい初老の男が出てきたので、弥次郎は非礼を詫びつつ雨宿りを乞うた。迷い人はさほど珍しくないと見えて、奉公人は突然の来訪者に驚いた様子もなく、濡れそぼった弥次郎を屋敷の中にいざなった。土間に入ると左手が厩となっているのだが、馬の姿はなかった。
 奉公人は弥次郎に木綿の手拭いを渡すと、手早く桶に水を張り、泥で汚れた足を洗うよう弥次郎に勧めた。弥次郎がありがたいやら申し訳ないやらで恐縮していると、奥の常居から三十前後の御内儀と思しき女が姿を見せた。弥次郎は向き直ると、慌てて頭を下げた。

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