小説

『オシラサマ異聞』川音夜さり(『オシラサマの伝承』(東北地方))

 決して恐れを感じたのではない。彼らの温かい親切心が嘘だとは到底思えなかった。だが腑に落ちないものがあったのだ。疲れた体が睡眠を欲しているにも関わらず、弥次郎は再び眠りにつくことができなかった。尿意を覚えて身を起こしてから、厠の場所を聞いていなかったことに気づいた。おそらく厩の近くにあるだろうという見当をつけて、弥次郎は静かに縁側へ出た。雨は止み、東の空に下弦の月が浮かんでいる。明日の朝は問題なく出立できるだろう。
 弥次郎は洞前の方に向かおうとして、隣部屋の障子から行灯の明かりが漏れていることに気づいた。この夜半に、誰が――? 足音を忍ばせて近づくと、二人分の人影が写った。
(ああ、尾白様と御内儀か)
 弥次郎は安心すると同時に、居心地の悪さを感じて戻ろうとした。その時、障子に人とは思えぬ影が映って、弥次郎は身を強張らせた。人にはあり得ない長い影が、一方の――おそらくは尾白様の頭から伸びている。一目見たとき、弥次郎には天狗の面に思えた。だが硬直した弥次郎がよくよく目を凝らすと、それは馬の顔によく似ていた。尾白様が包頭衣で顔を隠していたのは――!
「弥次郎様」
 奉公人の声。弥次郎が腰を抜かさずに済んだのは、すでに恐怖で身を竦ませていたからに他ならない。実際に、弥次郎の背後から声をかけてきた奉公人の方を振り返ることができなかった。
「相済みません。決して驚かすつもりはなかったのです」
 奉公人は心底申し訳なさそうな口調だった。
「お座敷へ戻りましょう。すべてをお話いたします」
 ほんの数歩だというのに、弥次郎は身じろぎするのに難儀した。まるで深田に足を取られた心地だった。どうにか筵の上に腰を下ろすと、奉公人が淡々とした口調で話し始めた。

1 2 3 4 5 6