「突然お邪魔してしまいまして。境木峠に抜けようとして、道を誤ったようなのです」
「滝口の分かれでしょうね。ときどき、近回りしようとしたお方がここに迷い込むのですよ」
「横田まではどれほどかかるでしょうか?」
「常ならば二刻ほどで……。されども、とうに日は落ちました。今宵は泊まっていかれるのが良いでしょう。大したものはありませんが、膳をご用意いたします」
御内儀は弥次郎に上がるよう促しながら、台所があるらしい奥へと向かった。その後を奉公人が追う。
「お膳でしたら、手前がやります。……御内儀様は盲いておられるのです。多少の光は感じられるようですが」
去り際に奉公人がそっと耳打ちしたので、弥次郎は驚いた。御内儀の自若とした所作には、全く盲人らしさがなかったのだ。目が見えずとも矜持を失わない、立派なお方なのだろう。弥次郎は一人うなづきながら板の間に上がった。いずれにせよ泊めてもらえるのはありがたかった。あのままでは横田に辿り着く前に横死していただろう。
弥次郎は常居に足を踏み入れると同時にぎょっとした。囲炉裏の横座――即ち上座に座っている人物の風体に驚いたのだ。頭に赤い麻布を巻いており、顔がまったく見えない。さながら童たちが軒先に吊るす照る照る坊主を連想させた。それが人形ではなく人だと分かったのは、手に煙をくゆらせている煙管を持っていたからだ。さもなくば照る照る坊主のごとき人物が弥次郎の方に首を動かし、客座に座るよう手で示したとき、実に情けない悲鳴をあげていたかも知れぬ。弥次郎は内心おっかなびっくりしながらも、円座に胡坐をかいて腰かけた。
「主の尾白様にございます」
ちょうど台所の方から徳利と杯を捧げ持った奉公人が戻ってきて、弥次郎に紹介した。弥次郎も名を名乗り、吉里浜の廻船問屋で手代をしていることを話した。尾白様は言葉こそ発しないものの、ゆっくりと頷いた。歓迎の意を表してくれているらしいことは、弥次郎にも分かった。尾白様は器用に包頭衣の中で煙管を噛んでは煙を吐いた。藺草の甘い香りが弥次郎の鼻をくすぐった。