小説

『ふれた』白井綿(『お階段めぐり』(長野県))

 床がギシギシと音を立てている。
「右手を壁に伝って歩くと迷わないらしいですよ」男はどこかで聞いた雑学を思い出し、少し大きめの声で口にした。
「へえ、そうなんですか」感心した声が想像していたよりも近くから聞こえる。
「はい、ソースは忘れましたが」
 やや困惑したような「ソース?」という声に、男は小さく笑った。彼は、自分が生み出す以外の音が聞こえてくるという安心感に包まれていた。先程会ったばかりなのに、背中を向けてもいいと思えたのは、非日常での出会いだからなのだろうか。
「鍵に触ると極楽に行けるというのは本当なんですかね」
「本当ですよ、自分の身近な人が、何人か極楽へ行ったんです」
 男は、後ろからの答えの真意が掴めないでいたが、身近な人が亡くなったのだろうと解釈し、「俺も極楽へ行きたいですよ。もう地獄は十分」と苦笑する。
「え!本当ですか!自分も地獄にいるんです。仲間だ!自分も本当は極楽に行きたいんです!」
 興奮気味に返ってきた言葉に、男は「ですね」とだけしか返せなかった。人生で数回言われたか言われていないかの、“仲間”という言葉は、聴覚が主導の空間で、よりくっきりとした輪郭をもって男に届いた。
 気が付くと男は、滅多に言わない愚痴を溢していた。
「俺、仕事、全然向いていないんです。最初に抱いていたイメージとは程遠くて、やりがいがあると思っていたら全然。ただ辛いだけ」
「自分もそうです。でも、自分の場合、向いてないだろうと思っていたら案の定でした。人間を追い詰める度に申し訳なさで嫌になるんです。でも、やりたくないとは絶対に言えないんだよな~」
「俺、一度仕事を断ったことがあるんです」思い出したのは数ヶ月前の小さな反抗。少し上ずってしまった声に、自慢気な思いを見透かされないかヒヤリとしたが、返ってきたのは、「えええええええ!!」という遠吠えのような声。

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