小説

『そのとき、ジュネーヴでは』夏迫杏(『高瀬舟(森鴎外)』(京都))

 凍ったものがすべて溶けると信じてやまない三月に、くし、とトミナガはひとつ嚔をした。マスクをしていても鼻腔はとめどなく溢れてくる鼻水でぐずつき、眼球だか粘膜だかもごろごろと痒く、目には見えなくても杉の花粉は存在しているのだった。くし、くし、ずずずず、くし、と嚔と鼻を啜るのを繰り返しながら歩いていると、これから通ろうとしていた橋の上にひとがいる。黒地に袖が白色のスカジャンに鮮やかな青色のニット帽を被り、あれは間違いなく大学生時代からの友人のキタノだ。喜びの多い野と書くキタノは防護柵に足をかけて、飛び降りようとしている。
「ちょちょちょちょちょ、おい!」
 トミナガは咄嗟に駆け寄り、手に提げていたエコバッグを放りだしてキタノの両腕を掴む。
「なにすんねん、離せや!」
「離すかぼけえ!」
 死なせてくれえ、なんやねん、なにがあってん、お前にはわからへんわ、なんも言われてへんのにわかるわけないやろ、とふたりは橋の上で揉みあう。傍らで、自転車でそこを渡ろうとしていた主婦の真奈美が通行を諦めて迂回していった。それは遠回りにもならないような経路変更だったけれど、いまの自殺しようとしてたんやろか、と落ち着かないきもちにさせた。しかし自宅に到着してディスカウントスーパーで買った食パンを冷凍庫にしまっているうちにそこで見て得た感傷は消えていった。食パンは五枚切り税抜き六十八円だったのがこの一年で税抜き八十円まで値上がりしていて、真奈美にしてみればそちらのほうがよっぽど気が滅入った。

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