小説

『そのとき、ジュネーヴでは』夏迫杏(『高瀬舟(森鴎外)』(京都))

「ああ、もう!」
 キタノは投げやりに叫んでトミナガの手を振り払い、しゃくり声をあげる。ぼとぼとと零れる涙を手のひらで乱暴に拭うせいで顔面が水浸しになっていく。トミナガは後になってやってきた緊張に心臓を痛く鳴らしながら、、うわ、めんどくさ、というあたまの片隅に湧いた友人に対するろくでもない感情を打ち消すために、なんでこんなとこで死のうとすんねん、西高瀬川なんて意味わからん川で、と思考の矛先をこの場所のことにすり替えた。西高瀬川はかつて島流しをしていたという高瀬川ほどの風情もロマンもないただの用水路に過ぎず、特にいまふたりがいる地点にいたっては川幅のほとんどがコンクリートで埋め立てられており、さあ飛び降りようと見下ろそうものなら死にたいよりも痛そうが勝つような、溺死ではない死にかたをしてしまいそうな見た目をしているのだった。
「どないしたんやさ」
 おおん、おおん、と下手くそに泣くキタノにトミナガは問いかけてみる。ふと、ワゴン車が西側からこちらに向かってきているのが見えて、トミナガはキタノの背に腕を回して橋を引き返し、道を譲った。うれしい家というステッカーが貼られたワゴン車は老人介護施設に戻ろうとしているところで、運転手の和也は次の送迎のことであたまがいっぱいで、助手席に座る早紀が、いまなんか轢きませんでした? と尋ねてくるまでトミナガのエコバッグに入っていた卵をばりばりと轢いたことに気がつかなかったし、引き返して確かめることもしなかった。轢き逃げされた卵はエコバッグから黄身と白身をにじませててらてらと光っている。
「生きれてしまう」
「え?」

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