小説

『ムのこと』上田豆(『姨捨山(大和物語)』(長野県))

 山頂は漆黒の闇の中だった。木々が覆いかぶさるように生えて、その闇をいっそう深くしていた。また一方では、剣山のように鋭利な傾斜を月の光が煌々と照らし出し、光と影のコントラストをつくった。
わたしは、ムを地面におろした。ムは、麓よりぐっと近くに見える月を眺めて嬉しそうに指差して言った。
「今夜の月はとびきりだね」
わたしも同意するように微笑んでみせる。ムも満足そうにまた頷く。そして、背を向けて、また一心に月を眺めはじめる。わたしは、ムのきれいな卵型の頭を覆う赤子のように薄い毛の流れを見ている。
ムはもう一度こちらを振りかえる。ムの海豚のような乳白色の肌を月の光が滑り落ちるのが見える。微笑みの形の唇は、いま私に何事か言おうとゆっくり縦に押し広げられようとしている。ムの赤い舌が、上唇と下唇の間の暗がりに納まっているのが見え始める。
そのときわたしは、わたしなしでは少しも動くことすらできない双子の片割れであるところのムの胸を、剣山の先っぽのようなその山のてっぺんで、思いっきり突き飛ばした。
「あっ」
ムはごく小さく声をあげた。その声には驚きが多分に含まれているはずであったが、実際のその声の響きには薄い笑いを含むような場違いな脳天気さがあった。ムはゆっくりと地面に転倒した。月の光を木々が遮るその一角で、ムは黒い塊となって訳も分からずうずくまった。
 わたしは踵をかえして一目散に、ただ一目散に、傾斜を転がり落ちるように駆け下りた。たったの一度も後ろを振り返らなかった。

 それから、ムがどうしたか知らない。だけどもムがいなくなってからのわたしの輪郭は、ムがいたときよりもよりもいっそう酷くぼやけてほどけてしまった。
あるいはあの夜、突き飛ばされて置き去りにされたのは、ムではなくわたしの方だったろうか。

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