小説

『ムのこと』上田豆(『姨捨山(大和物語)』(長野県))

「ただいま。ひさしぶり」
そう言って微笑むムの細くてやわらかな髪を撫でてやった。ムの額も髪(もっとも、その髪のような毛は、生まれて間もない赤子のように薄い)の生え際もじっとりと汗ばんでいて、わたしの左指を濡らした。指のにおいをかぐと、わたしの首やこめかみや肘の内側の汗と同じにおいがした。

水野くんのことはずっと、マスク姿しか知らなかった。はじめは、同期の小柄で小奇麗な男というくらいの印象でしかなかった。しかし、話すときにあんまりきれいな瞳でこちらを見つめるので、だんだんとその目を見るのが嫌になった。そして、マスクの下が滅茶苦茶で不潔ですごくいやな感じであればいいと願うようになった。
水野くんが休憩室に行くとき、ムは決まってわたしに耳うちをして知らせた。
「水野くんが休憩室に行くよ。後をついて行ってマスクの中身を見ちゃおうよ」
ムの声は笑いを含んで甘くしめっていた。
ムがいつもわたしに知らせるせいで、わたしはいつも水野くんが休憩室に行く後ろ姿を盗み見なければならなかった。
わたしは職場の人に聞かれないように小さな声でムに返事をする。
「いやよ。他人のマスクの中身なんて興味がないもの」
ムは意地悪く微笑んで言う。
「うそつき。見たくてたまらないくせに」
あんまりムがうるさくささやくので、わたしはひと息つくふりをして水野くんの後をすごすごとついて行かなければならなかった。
しかし休憩室でコーヒーを飲むためには自分もマスクを外さなければいけない。そのことに気をとられて、自分のマスクをすばやく上げ下げしているうちに、いつも水野くんのマスクの中身を覗き損ねるのだった。マスクをするようになるまでは気にもとめていなかった自分の顔の特徴だったが、マスクでそれらが隠れるようになってからは、マスクは私の顔の下着になった。下着の中身を安易に他人に見せないのと同じで、私は素顔をさらすことができなくなった。水野くんになどには特に。

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