小説

『ムのこと』上田豆(『姨捨山(大和物語)』(長野県))

 ある日の社食で、ムがわたしの腕に腕をからめてささやいた。
「ほら、あそこに水野くんが座るよ。ここからちょうど水野くんの顔が見えるよ」
わたしは食べ終わってマスクをしていた。そうして、はじめて水野くんのマスクの中身を覗き見た。水野くんの輪郭は思ったよりも四角く、頬には面皰のあとがあって汚かった。そのことはわたしを大変安心させたが、同時に、斜め左側から眺める輪郭の角度が完璧で無駄のないことが私をとても不安で落ち着かない気持ちにさせた。今まで知らなかった微笑むときの口の動きをすばやく覗き見た。下唇を上の歯で小さく噛むように微笑むくせがあることが分かった。今まで見ていたマスク姿の隠された口元は、いつもこんなふうに微笑んでいたのだろうか。そのことがマスクで隠蔽されていたことは、わたしをとても不当な思いにさせた。
水野くんの微笑みは、わたしの胸から首すじにかけてむず痒いような掻きむしりたくなるような言い知れぬ不安な気持ちにわたしをさせた。そんなときムはひっそりと声を出さずに笑って、わたしの首すじにじっとりと腕を絡めその生暖かい汗ばんだ頬でわたしの頬に頬ずりをするのだった。
マスクの中身を知ってしまうと、知る前よりも水野くんの存在は色濃くわたしの生活を侵食し始めた。一瞬覗き込んだマスクの中身について、ムは何度も繰り返しわたしに語りかけた。
「輪郭がすてきだったね」
「口元があんなふうに動くなんて知らなかったね」
「顔をもう一度よく見たいね」
 ムが語りかけるたびに、わたしは水野くんの顔を、映画を巻き戻すように繰り返し再生しなければならなかった。再生を繰り返すうちに、記憶は掠れて、それがほんとうの水野くんの顔なのか、自分の想像の中の水野くんの顔なのかだんだん分からなくなった。もはや誰とも分からない顔を繰り返し上映し続ける、わたしはただの壊れた映写機だった。

 

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