小説

『ムのこと』上田豆(『姨捨山(大和物語)』(長野県))

 その山は、標高1200mを越える霊山だった。わたしの家はその山の麓にほど近い町にあった。わたしは水野くんでありムであるそれの手を引いて山道を歩いた。月の光は山道をしっとりと濡らしていた。
「どこに行くの」
夜中に山を歩くことの奇妙さに気がついたのだろうか、水野くんが不思議そうにたずねた。
つないだ手は今日も汗ばみ濡れていた。海豚のような乳白色の肌が、月の光に濡れてぬらぬらと光っている。木々は寝静まって、その呼吸すらも聞こえない。
「頂上で月を見るんだよ」
わたしは水野くんを見ないままに答えた。
「それは、いい考えだね」
水野くんはゆっくりと、とても満足そうな声で言った。
「月が好きなの?」
わたしは訊ねた。しかしもとより水野くんが月が好きだということは知っている気がした。だから、水野くんの答えは聞かなくとも分かった。
「そうだよ。わたしは、あなたの好きなものは全て、あなたが思うのと同じくらいに好きなの」
月の光は、水野くんのはだしの足の指を洗っている。
わたしはつい、水野くんの顔を見た。水野くんのすべらかな頬を月の光が流れ落ちる。水野くんの顔の造形は、わたしの壊れた映写機の産物だったが、わたしはそんなことはどうでもよかった。そのきれいな瞳も完璧な輪郭も唇の形も面皰のあとも、見れば見るほど、胸を掻きむしって叫び出したくなるような、走り出したくなるような苦痛を私に与えるだけだった。
いまや水野くんの姿も、まがいもののマスクの中身でさえも、わたしにとっては苦痛でしかなかった。水野くんがわたしの近くにいようがいまいが、そのことはちっとも変わらない事実だった。
 わたしは、捨てなければならない。
山の勾配は頂上に近づくにつれて驚くほど急になり、山道を歩くというよりもむしろ這い進むと言ったほうがよほど正確だった。わたしの体中からはとめどなくだらだらと汗が流れ続けた。

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