小説

『勝ち山』外﨑郁美(『カチカチ山』)

 いちばん近くで静かに努力を重ねる信子を見てきた智は、信子をこんな状態にまで追いつめたであろう何かを憎んだ。そして黒幕の存在を瞬時に嗅ぎわけ、いち早く突き止めた。山下である。この男をどうにかして懲らしめたい。

「母さん、大丈夫だから」

 智は信子が横になるベッドのそばでこぶしを握りしめ、ゆっくりと口角を上げた。山下への復讐を固く誓った瞬間だった。こうして智による復讐劇はそっと幕を上げたのである。



 ほどなくして山下が信子に代わって部長を務めることになった。信子の復帰がいつになるかが読めず、すぐに次の候補が何人か噂にはなったが、信子の次は山下ということは誰から見ても自然な形だった。山下は確かに実力はあったのだ。

「部長。山下部長、聞こえてます?」
「あぁ、ごめん慣れなくて」

 慣れないと言いながら、こう呼ばれる瞬間を何度シミュレーションしたことだろう。山下はその響きに酔いしれた。「部長」そう呼ばれるたびに、自尊心がくすぐられるような照れくさい気持ちにもなったが、そんな甘酸っぱいほろ酔い気分は一瞬で覚めた。不在中の信子の仕事をすべて引き受けることになり、山下はすぐにパンク状態に陥ったのだ。信子が心身ともに参ってしまったのも無理ない。この量の業務を短時間で的確にさばき、さらにいつも挑戦的なディレクションをしていた信子を、山下は尊敬せずにはいられなかった。未熟なのに口だけは達者な若手たちは、ああ言えばこう言うで自由奔放な提案をぶつけてくる。彼らに対し苛立つこともなくすべてを受け止めていた信子の横顔を思い出す。「あのおばちゃん、すごかったんだ」今さらながら、ふてくされていた自分を恥じる気持ちにもなるが、テンパりそうなめまぐるしさにただ流される日々が過ぎていく。
 そんな呆然自失状態の山下を気遣い、的確なサポートをしてくれる若手のホープがいた。同じ部の岩本由奈である。由奈は信子が部長になったことを喜んでいたひとりで、今回の信子の休職にも人一倍ショックを受けていた。せっかく自分のお手本となるような希望の星が現れたのに、たった3ヶ月で休職するほど追いこまれてしまったのだ。指針を失いかけていた由奈だったが、落ち込んでいる暇はない。信子不在の穴を埋めるかのように、献身的に山下をフォローし、積極的に山下の業務も引き受けた。そして自然と二人の時間は増えていった。



 由奈は目立つような美人ではなかったが、目鼻立ちのひとつひとつが端正で、はにかむような笑顔に愛嬌があり、TPOをわきまえた品のあるオフィススタイルには妙な色気があった。山下からの助言を、山下の目をのぞきこむように聞き入る由奈。その瞳を見ていると吸い込まれそうになり、物言いたげな唇はいつもツヤっと潤っている。

「山下さんみたいな人が旦那さんだったら、幸せなんだろうな」

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