小説

『勝ち山』外﨑郁美(『カチカチ山』)

 そう喉元まで出かかって、山下はぐっとこらえた。オフィスで“オカン”丸出しの女が、まるで母ちゃんみたいに指図してくると思うと萎えた。ここは神聖な仕事場。戦う男たちの聖域なのだ。山下のこの本音は、態度として随所に現れていくようになった。



信子が会社に来なくなったのは、部長就任から約3ヶ月経ったころだった。公には度重なる残業や深夜に及ぶ接待が原因の「過労」で、産業医の判断により一時休職ということだったが、営業局では信子はうつ病になったのではという噂が流れた。山下は一瞬ヒヤリとした。思い当たらない節がなかったわけではない。担当クライアントに関する情報共有がうまくいかず、お客の前で信子の無知をさらしてしまったこと。タバコを吸わない信子を置いて、部下たちを連れて度々喫煙所で打ち合わせの続きをしていたこと。信子が酒が飲めないことを知りながら、接待は必ず二次会、そしてキャバクラまでフルコースで行っていたこと。従いたくない信子の指示には返事もしなかったこと。しかし山下には山下のスタンスがあった。仮に部長が男であっても、大事な話は喫煙所でしていたし、接待は相変わらずフルコースだっただろう。気に食わないことに対してまで愛想を使うタイプでもない。いつもと変わらないといえばそれまでだ。

「だから嫌なんだ女は」山下は苛立ちながらタバコに火をつけた。しなくてもいい配慮をしなくちゃならなくなる。非効率だ。そもそもおばちゃんが無茶するとこうなることは、目に見えていたはずだ。営業部長ともなれば、数々の取引先との交渉や付き合いが仕事となり、しかもその相手こそ古くて頑固な男たちなのだ。男社会に、女が無理に出たところで太刀打ちできるわけがないのだ。山下はまだ煙が漂うタバコを、灰皿にグリグリと押しつけた。



「母さん、大丈夫?」

 集合住宅の一室に黄色い花を咲かせるガーベラのブーケが飾られた。信子を見舞う若い男は、ひとり息子の智だ。智にとって母親である信子は何より愛しく大切な存在だったし、深く尊敬していた。ひとりっ子である自分を、信子は女手ひとつで育ててくれた。智が無事にすくすくと育ち、私立の大学にまで通えて希望の道に就職できたのは、信子が智のために働き続け、苦労も見せずに家のこともすべてこなしてきたからだ。そう、信子は真のスーパーウーマンだった。
 短大卒だったし、はじめからずっと働くつもりではなかったが、目の前の仕事に誠実に向き合い続けるうちに手応えを感じるようになっていた。さらに智が生まれる前に離婚していた事情もあって、信子はとっくの昔から長時間残業をせずに成果を出すスタイルを習得していた。智が小さいうちは必ず定時に帰宅していたが、そのぶん集中力と仕切りの良さで乗り切った。今の時代だったら確実に評価される働き方だ。そんな信子が初めて営業でのキャリアを積み始めたのは、智が高校に進学してからだ。途中で社内からの嫉妬や反発にあいながらも、一歩一歩山を登ってきた信子。ようやくここまでたどり着いた矢先に、休職することになってしまうとは。

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