小説

『勝ち山』外﨑郁美(『カチカチ山』)

「山下部長!聞こえてます?」
「おぉ、ごめん」

 山下、心ここにあらず。今宵は由奈とデートなのだ。いや、デートというと誤解がある。正確には「相談があるので、よろしければごはん行けませんか?」と由奈から誘いを受けたのだ。これまで仕事先や接待からの流れで二人でごはんに行くことはあったが、わざわざ約束して出かけることはなかった。山下のなかではそれが「一線を引いている」ということだったのだが、まさか由奈から声がかかるとは。部下から相談があるというのに、断るなんて選択肢があるか?山下にはこの誘いを断る理由はひとつもなかった。



「実は行ってみたかったバーがあるんです」

 由奈に言われるがままに、二人は二軒目へと向かっていた。相談というのは、まとめると想像の範囲内におさまるようなキャリアプランについてだったが、たわいもない由奈の話は想像以上に山下を刺激した。由奈の家族や学生時代の話。なぜ今の会社を希望して入社したのか。今彼氏がいない理由や、過去の恋愛について。由奈について知れば知るほど、もっと知りたいと思い、自分のことも知ってほしくなる。今の会社が置かれている厳しい環境や、そこで抱えるプレッシャー。会社の第一線で戦ってきたことへの誇りやプライド、そして恐れについて。山下から次から次へと本音が溢れ出ていく。
 妻の香とは社外の友人の紹介で出会ったこともあり、山下は自分の仕事について細かく話したりはしない。仕事の話をしたところで香には興味がないだろうし、言ったところで伝わらないことのほうが多いとあきらめていた。だから由奈に話してみて、いかに自分が本音をぶつける相手を欲していたか山下は気づいてしまったのだ。

 二軒目は由奈がずっと行ってみたかったというバーだった。大通りからはずれた小道沿いにある、入り口がわかりづらいこなれた店だった。

「スモーキーなの、飲んでみたいんですよね」

 由奈はそう言ってボウモアの12年を頼んだ。いつも仕事帰りに行くバーでは、甘そうなカクテルしか飲まないのに。

「いい香り」

 由奈が目を細めてグラスに唇をつける。やっぱりいい女だと山下は思った。体のなかにアルコールがまわるのと同時に、山下の心は溶けていった。

 気づいたら山下は、由奈と手をつないでラブホ街を歩いていた。相当酔っ払っていたのだろう。どういう経緯でこの道を歩いているかも思い出せず山下は困惑したが、由奈と手をつないで歩いているなんて、ふわふわと雲の上を歩いているような気分だ。

「眠くなっちゃった」

 由奈が山下の腕を引いた。由奈に引かれる先は、安っぽい西洋の城のようなラブホテルだ。呆然と立ち尽くす山下の肩にぶつかったことにも気づかず、若い男女がイチャつきながら入り口に向かうのを見て、急に山下の目が覚めた。

「岩本、これはまずいよ」

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