小説

『勝ち山』外﨑郁美(『カチカチ山』)

 由奈はやわらかそうな口元をグラスにつけたまま、山下の目を見てそう言った。二人はとあるバーにいた。山下の行きつけで、仕事帰りや接待の後にひとりで立ち寄る隠れ家的な居場所である。

「なんで?俺なんて仕事人間だから、なかなか家に帰って来ないよ」
「いいじゃないですか。仕事に夢中な男のひとって素敵だし、」

 横並びのカウンターで、由奈は山下のほうに顔を向ける。

「なかなか会えないなんて、ずっと恋できそうじゃないですか」

 山下は今にも由奈の腰に手をまわしそうになるのを必死でこらえた。むき出しになる男の欲望を抑え込もうと、ウイスキーを喉に流し込む。
 由奈が献身的に山下をサポートするようになり、山下は完全に由奈に惚れてしまっていた。接待にも付き合ってくれる由奈を、たまにその流れでバーに連れて行くようになった。いつもひとりで来ていたはずのこの場所に女を連れて来るようになった山下に、バーテンダーは目配せをする。「よせよ」という顔をする山下に、バーテンダーは「わかってますよ」といわんばかりにニヤッと微笑む。

 山下と由奈の間に肉体関係はなく、実のところ交際しているわけでもなかった。今年で結婚20年目を迎える山下は、一度も不倫に手を染めたことがなかった。気になる女ができたこともない、と言えば嘘になる。今回の由奈のように、たまに可愛いなと思わざるを得ない女に出会ってしまうこともあったが、いつも泳ぐのは心だけ。これまで踏みとどまってきたのは、妻の香のことを愛していたし、高校二年生になるひとり娘のハルに軽蔑されるような男にだけはなりたくなかったから。家のことはすべて妻に任せる。そのぶん人一倍仕事して、出世して、家族を守り抜いてみせる。山下の母親がずっと専業主婦だったこともあり、この形が幸せの最良の形だと山下は信じて疑わなかった。だから、

「そろそろ私、働きに出てみようと思うんだけど」

 そう香から言われたときは、何が何でも猛反対を貫いた。

「だってハル、もう小学生だよ」
「家に帰って誰もいなかったら、ハルがかわいそうだろ」
「ハルも夕方まで帰って来ないけど」
「いいよ、俺がお前のぶんまで働くから」
「そうじゃなくて。私も働きたいの」
「何で今さら」
「何よ、今さらって……」

 香は「もういい」と寝室に行ってしまった。それから何度かこのくだりをくり返したが、その度に山下は言葉の力技で押し切った。山下は怖かったのだ。自分が信じていたはずのこの幸せが壊れるのが。いつも変わらないこの形こそ、山下が思う幸せの形だった。

「部長」
「部長」

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