小説

『花咲かす大樹』まる(『こぶとりじいさん』)

 人は、そこに無いものを捉えることはできない。では、捉えることのできないものは「無い」と言ってよいのか。もしそれでよいのなら、眼中にない人間も、人の心も、この世には存在しないことになってしまうのではないか。少なくとも私には「彼」の姿を目で捉えることができ、「彼」が私の生徒であるという確信があった。


 高校の冬休みが開けた一月のある日、私のクラスにいる一人の生徒に偶然目が留まった。
 その日「彼」に気が付いたのは授業もホームルームもすべて終わったあとのことで、もう生徒たちは皆ぞろぞろと教室を出て行くところだった。生徒たちの波の中へ自然と溶け込み紛れていく「彼」は誰とぶつかることもなく、誰と話すこともなく、するりと教室を出て廊下を抜けていった。ただそれだけであれば珍しいことでもないが、奇妙だったのは私がなぜか「彼」のことを思い出せなかった事である。「彼」は不審者ではなく確かに私の生徒であり、私は「彼」を知っている。しかし私は知っているということくらいしかわからず、「彼」の名前も、誰と友達でどんな生徒なのかも思い出せなかった。この不可解な事態を整理するべく、私は出席簿を持って教室を出た。

 国語科準備室に戻ると表崎(うわさき)先生の姿があった。彼女とは担当教科も同じで年も近く、互いに仕事上の相談をすることも多い。とはいえ、自分の生徒の名前を忘れたなどと言えるわけはなかった。
「中村さん、これから内田さんのお見舞い行くんですけど……」
 彼女の言葉でもう一人気にかけていた生徒の事を思い出した。
 一年の内田花という生徒が重い病気であるというのを教員の中で知らない者はいないが、中でも担任の表崎先生は特別気にかけており、そのことで悩んでもいた。
 内田は頻繁に欠席しながらも学校に顔を見せていたが、十一月になって体調を崩した。それに伴って市内の病院へ入院したが、以降病状は急速に悪化していったという。そして冬休みに入る前、医者からもう完治はできないと言われたという連絡があった。おそらく高校卒業まで、早ければ三年になるまでもたないだろうと。内田の母親からそれを知らされた表崎先生は言った。
「教師として先の見えない不安を抱えている生徒はたくさん見てきたし、励ましてきたけど、先がないって知ってしまった子に何をどう言ってあげたらいいのか、わからないんです」
 それは私にとってもかつてないほどの難題であり、表崎先生に対して私も答えられずにいた。そしてそのまま冬休みに入り、表崎先生から内田についての連絡がないまま新学期になった。
 私は内田と直接の関わりはないにせよ、教員としても同僚としても、何かしらの答えを見つける義務があるような気がして彼女の容体を案じていた。ただ、学校の関係者とはいえ会ったこともない男が一人で女子高生の見舞いに行くのは気が引けたので、病院に何度か行っている表崎先生を介して会うことにしてもらったのだった。
 当然「彼」についても気になってはいたが、そちらはまだ何がどうなっているのか考えをまとめる必要もあったので、病院に向かう道中で整理することにした。何より、表崎先生の現状に対する不安や迷いはとてつもないだろう。

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