小説

『花咲かす大樹』まる(『こぶとりじいさん』)

 そうして神社から出たところで、ちょうど鬼のおやじが戻って来た。
「あれ、中村君まだいたの?」
「彼」に先生と呼ばれることには何も感じなかったが、この男に突然馴れ馴れしい呼び方をされるのはやや不快であった。
「あの、一つお聞きしたいんですが、『彼』がやろうとしていることを止める方法はないんですか?」
「ないね。あの子はもう心を決めてるし、色々と準備もしてきたし何より、命のやり取りは始めたら取り消しが効かないからね」
 淡い期待も即答に跳ね返された。
「ちなみに警察とかに相談しても、あの子ももう中村君にしか見えてないだろうし、意味ないからね」
 鬼のおやじはそう付け加えて神社に帰っていった。


 一度学校に戻って翌日の準備を済ませてから帰宅した。それから夕飯を済ませて風呂から上がりスマホを点けて見た時、ようやく表崎先生からのメールを読まずにそのままにしていたことを思い出した。焦って開いてみると、

   お先に学校に戻ってます。

とあった。私が学校に戻った時にはもう表崎先生はいなかった。振り返ってみれば病院からいきなり走り去ってから何も連絡せず、その上メールを無視したままであった。ところが表崎先生に対する私の意識は更にその下の文によって上書きされてしまった。

   あと、中村さんは内田さんに会ったことないんですよね?
   「花ぞ昔の香に匂ひける」を誰かに教わったと言ってたんですが、私はまだ授業で扱ってないので…

 そこまで読んで、口の動きを確かめるようにして「花ぞ昔の」と声に出した。私は授業で百人一首を扱ったことがある。「彼」が私の授業を受けていたとすれば、別れ際に呟いたあれが「花ぞ昔の」であった可能性はある。そして私が病院を出てしまったのは、そこで「彼」を目撃したからであったことを思い出した。思わず私は寝間着のジャージ姿のままでコートと車のキーを掴み、家を飛び出した。

 私は考えていた。
 表崎先生によれば内田はあの歌を自分で調べたのではなく誰かに教わったもので、その誰かは忘れられている。彼女に国語を教えていて、入院後も含めて最も接点の多い表崎先生でないとすれば教員の誰かである可能性は低い。全くないとは言えないが、だとしたら内田と直接接点のない私にこの話を聞くよりも先に表崎先生には思い当たる誰かがいるはずである。そして重要なのは、内田はその誰かを忘れてしまったのか、忘れさせられてしまったのかということである。もし後者であるならその「誰か」は、ただ自分が消えたいという思いだけでこの世から消えようとしているのではなく、そうせざるを得ない理由があったからではないか。だとしたら、私はその真意を確かめずにはいられない。暗闇の中、夕方訪れた神社まで車を飛ばした。

1 2 3 4 5 6 7 8