小説

『時を盗んだ男』永佑輔(『貉』『時そば』『猫の茶碗』)

 東京に、何チャラ坂という昼夜問わず寂しい坂がある。男はある晩、目と鼻と口のないノッペラボウに出くわし、屋台の蕎麦屋に助けを求めた。ところが蕎麦屋の主人の顔も見る見るノッペラボウに変わった。そして同時に屋台の灯りは消えてしまった。

 屋台にすがりつきながら、男は整えきらない息を一気に吐き出す。
「ちょっと待った! 客がいるのに店をしまっちゃうのか?」
 ノッペラボウは申し訳なさそうに、かどうかは判然としないが灯りを点けた。
「やはり、目のないノッペラボウに蕎麦屋はムリだと思いまして」
「蕎麦づくりなんて造作ないだろ、アンタは器用なんだから。口がないのに喋るなんて中々できることじゃないぞ」
「直接、心の声をお客さんの頭に届けてるんです。それにしても自信が湧いてきた。よろしかったら、ご注文を」
 鴨南蛮を頼んだ男に、ノッペラボウが生白(なまっちろ)い手を差し出す。
「千六百円? 先払い?」
「チェーン店には食券販売機が置かれております。それの真似事です」
「まだ食ってもない蕎麦に金を払えってか、まったく」
 チャリン、と男が小銭を鳴らす。
 音を聞いたノッペラボウの背筋が伸びた。
 男はノッペラボウの手を包み込むように握る。
「アンタはノッペラボウだから目がない。てことは何も見えてない。俺が数えながら百円玉を手渡すから、しっかり受け取ってくれよ」

 一枚、一枚、三枚、丁寧に、男は百円玉をノッペラボウの手に置く。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一」
 一まで数えると、ハタと手をとめてノッペラボウに尋ねる。
「今、何時だ?」
「十二時です」
 果たして、ノッペラボウに「十二」と言わせた男は十三から数え直す。
「十三、十四、十五、十六、これで全部だ。さあ、蕎麦を作ってくれ。うんと熱いヤツをな」
 百円分の代金をチョロまかして、男は鴨南蛮を待つ。

 これが男の算段だ。早速、実行する。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、今、何時だ?」
「申し訳ございません。十五分おきにアラームが鳴るように設定しているのですが、あいにく二時間ばかり前に電池が切れたようで。お客さん、時計は?」
「しない主義なんだ」

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