小説

『時を盗んだ男』永佑輔(『貉』『時そば』『猫の茶碗』)

 男の左腕にはバッチリ時計が。
「時計はしなくても、携帯電話はお持ちでしょう?」
「アンタの時計と一緒だよ。バッテリー切れだ」
「では、私の携帯電話に表示されている時間を確認してください。どうぞ」
 ノッペラボウが差し出した携帯電話には、『23:57』。
 男は鼻の頭をかく。
「液晶の具合が悪いみたいで、時間なんて分かったもんじゃないぞ」
「いいじゃないですか。どうせ暇を持て余しているんでしょう?」
「じゃなきゃ、こんな蕎麦屋に来てない」
「でしたら、時間は気にしないことにしましょう」
「ちょっと待った。いち、いち、なな、時報にかける」
 男は携帯電話を奪い取り、電話をする素振りさえせず、ノッペラボウの耳に口を近づける。
「午前十二時十二分十二秒」
「十二時十二分十二秒。十二が続きますね、十二が」
「十三、十四、十五、十六。さあ、鴨南蛮を作ってくれ」

 マンションの一室で、洋子がキャリーバッグに服を詰め込んでいる。

 パキッ、と男は箸を割る。蕎麦を手繰ろうとすると器には何も入っていない。
「これはどういうことだ?」
「やっぱり私には無理です。目がないので蕎麦なんて作りようがありません」
「なるほど、器までノッペラボウか」
「目と鼻と口を貸して頂けると作ることができますが?」
「背と腹がひっつきそうだ。背に腹は代えられない。目でも鼻でも口でも貸すよ」
 ノッペラボウはちょこんと頭を下げると、男の顔に手を伸ばし、ヒョイと目、鼻、口を取り、自分の顔に付け、器に水を張り、映った顔を眺める。
「あらら、もっといい男かと思ったんですが……」

 洋子はキャリーバッグを持ち、犬を伴って部屋を出て、集合ポストに鍵を入れる。

 鴨南蛮が男の前に差し出される。男は蕎麦を手繰るが、すすれない。
「口がないから食えないな。なあ、口を返してくれ。それに目と鼻も」
「それは出来ません」
「蕎麦を食わせるから蕎麦屋なんだろ。口を返してくれ」
「私は蕎麦屋ではございません」
「「蕎麦屋じゃないのにどうして蕎麦を売ってんだ?」
「ここで蕎麦を売っていると、百円で顔が買えるんです」
 男は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている、かどうかは分からないが騙されたことは確かだ。

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