散りゆく桜が綺麗なのは桜が悲しんでいるからで、ひらひらと宙を漂い落ちていく花びらは桜の涙なんだ。
昔、私がまだ桜の枝にジャンプしないと届かないくらい幼い頃に、おじいちゃんが言っていた。おじいちゃんと二人で縁側に座り、中庭の真ん中に咲く桜を見上げれば、額に花びらが降ってきた。それをつまんで目の前にかざしながら、これも涙の一部なだろうかと感傷的なことを思った。
おじいちゃんは続ける。
そして、この世で一番美しい桜の下には、死体が埋まっているのだ――と。
かつて、桜前線は実体を伴っていた。その姿は少女の形を取っていた。
桜前線の少女がいたなんて、今ではもう見られないから嘘のように聞こえてしまうかもしれないが、過去の新聞や特集映像に姿が残っているから、実在していたのは紛れもない事実だ。
桜前線の先頭にその少女は存在し、桜(主に染井吉野)の開花と共に春の訪れを告げる。
姿形はその年によって変わるが、少女の姿をしており、白い衣服を纏っているということは共通している。
常に見えるわけではなく、ある一定の条件が揃えば見えるらしい。条件は定かではなかったが、朝に玄関を出た瞬間、春の訪れを思わせる暖かな日射しの日には桜前線の少女が見られることが多いと言う。
舞うように踊り、時には鼻唄を歌い、スキップをして蕾の膨らんだ桜の木々の合間を縫って進んでいく。
楽しそうに踊る姿は見えても、足音は聞こえない。
微かに鼻唄は聞こえたが、人の知っている歌ではない。歌は歌えても、人の言葉は通じない。人を人と認識しているのかしていないのか、ふざけて通せんぼをしてもくるりとかわしてすり抜けてしまう。
だから当時の人は少女のことを、一種の現象として認識していた。それは今でも同じこと。
《桜前線》とは生き物ではないのだ。
「桜前線が消えてしまったのには、悲しい物語があるのだよ」
「どんなものにも物語はあるわ」
「確かにどんなものにも物語はあるだろう。けれどもね、語る人のいる物語というものは多くは無いんだよ。だから、この物語はわたしが語るのさ」
隣に座るおじいちゃんが、まるで昔ばなしでも話し始めるかのように物語を始めた。
一歩、二歩、三歩。
少女が歩けば、花が咲く。
その男は桜が好きだった。
桜の花を目にすれば立ち止まり、散り行く花びらに思わず手を伸ばしてしまう。
初めて桜前線の少女を目にしたのは、まだ小学生の頃だった。
やっていることは今と変わらず。急に桜の木の前に立ち止まり、不意に手を上げふわふわ舞う花びらを追いかける。その姿を見ていた家族や男の友人は、「また今日もやっている」と呆れた調子で微笑んでいた。
超が付くほどのマイペース。
何を考えているのか分からない。
きっと何も考えていないに違いない。