小説

『桜前線停滞中』原カナタ(『桜の樹の下には』)

 中には小型の暖房器具を備え付けており、暖かい空気が充満している。その温度は、男が長年をかけて統計を取って調べた、少女の実体化する条件を満たしていた。
 さすがの少女も驚いて、ガラスをコツコツと叩く。首をかしげて、ガラスを押す。
 いとおしむようにガラスを撫でて、男はトランクを閉めた。
 こうして桜前線は拉致監禁された。
 男は車を発進させ、北へ北へと山の中に入っていく。

 
 車を停めて、外へ出る。白い四角い家が建っていた。お歳暮で貰うお菓子の箱を地面に置いたような家だ。
 トランクを開け、ガラスの棺を見下ろすと少女がやはり不思議そうな顔でこちらを見返した。
 ガラスの棺を丁寧に背負い、家の中へと入っていく。
 外は白塗りのコンクリート造りだが、中は木造建築だった。廊下を真っ直ぐに進むと、中庭へと辿り着く。そこには真ん中に立派な桜の木が一本そびえ立っている。
 植えたわけでも、植え替えたわけでもなく、この桜の木がある場所に男はこの家を建てたのだ。準備に時間がかかってしまったのも、この家を建てるためだったといって差し支えない。
「桜を咲かせてくれますか」
 戸締まりと空調の設定をしっかり確認してから、ガラスの棺の蓋を開けて少女を中庭に解き放つ。
 天井にはガラスが張ってあり、外には出られない。
 桜前線が実体化する温度、風量、気圧。
 全てをクリアしていた。
 少女は半身を起こし、男の顔も見ずに飛ぶように桜のそばへ。唯一の友を見付けたかのように、桜の根元に座ったきり動かない。
 その桜の蕾に色が付く。この桜もじきに咲く。桜前線の少女が冬からの目覚めを告げたのだ。
 一歩、二歩、三歩。
 少女が歌えば、花が咲く。
 その歌はどんな言語にも当てはまらない言葉だった。
 男は花が咲く音は、きっとこんな音なのだろうと思った。
 これで、自分のためだけに咲く桜が見られる。
 この瞬間、桜は男だけの物だった。
 桜前線はいるだけで花を咲かせる。そこに意思はない。
 男は少女のそばへ行く。
 怖がるでもなく、少女は呆然と男を見つめた。瞳に感情はなく、ピンクブラウンの瞳が二度三度瞬いた。
「前線なのだから、たまには停滞してもおかしくは無いだろう?」
 頭に触れる。
「踊ってよ、いつもみたいに」
 男は言う。
 指先を滑る髪は淡くピンクがかった白で、この桜と同じ色なのだと知った。
 少女のいる場所に桜は咲く。あと二、三日もすれば桜は満開になるだろう。
 少女が踊ることは無かった。
 男はあくびをした。
 実のところ、この後のことはあまり考えていなかった。
 思いの外、少女も抵抗しなかった。

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