小説

『桜前線停滞中』原カナタ(『桜の樹の下には』)

 周りは彼をそう評価していた。
「桜より綺麗な花を僕は知らない」
 男はそう言って、また桜の花びらを追いかけるように手を伸ばす。
 彼のことを詳しく知る人は、きっと桜の咲く季節に生まれたからなのだろうとか、彼の既にいない母親が「さくら」という名前だから重ねて見ているのだろうとか、様々な憶測を立てていたが、実のところは分からない。
 分かっていることは、男が桜という花をこの世で一番と言っていいほど好いているということだけだった。
 小学校の帰り道、道路の両側に桜の咲く桜並木の合間に座り、今日ももうすぐ咲きそうな蕾の桜を鑑賞していたときのこと。
 男は桜前線を見た。
 一歩、二歩、三歩。
 少女が歩けば、花が咲く。
 花は桜。
 咲くも散るも清らかなる、この国を象徴する麗しき花。
 車通りも無くなった、静かなときのことだった。普段であればひっきりなしに車が通るのに、そのときだけは何も通らず、下校時刻というのに人も男の周囲にはいなかった。
 桜前線と二人、風も止み、世界から切り取られてしまったかのような瞬間。
 桜前線はふわりと降り立つように桜並木の南側の端に登場し、軽いステップで歩き出す。
 少女が通り過ぎれば、少女の来訪を待ち構えていたかのように、固い桜の蕾がほどけて淡いピンク色の五弁の花を露にした。
 向かう道には蕾ばかりの木々、少女の背には満開の桜。冬を春へと変えていきながら、少女のステップは北へとすすんでいく。
 空気を微かに震わせるような、歌が聞こえた。
 どんな言語にも当てはまらない言葉だった。言葉というよりも音に近い。リズムも不規則で、何に似ているかと聞かれれば、雨粒が葉を打つリズムに近いだろうか。人の持たない、自然の持つリズムと言語だった。
 男の周りも等しく春にして、少女は通りすぎていく。
 白いワンピースの裾と桜色の髪を、同じ色の花と遊ばせていた。
 咲いた桜が風に吹かれ、男の目の前を花弁が降りていく。
 耳に残る余韻は桜の歌。
 奇跡のような美しさに鳥肌が立った。
 そして同時に、悪魔のような欲を胸に抱いてしまった。
《自分のためだけに桜を咲かせてほしい》
 何も考えていないように見える者が、何も考えていないなど有りはしない。男は自分に芽生えた初めての独占欲を誰にも口にはせず、その後もやはり男は何も考えていないように見え続けたのだという。
 胸に抱いた欲は、口から言葉となって吐き出されることは無かった。だから、尚も膨らんでいったことは男にしか知りえない。さながら、春を待つ蕾のようにふくふくと膨らんでいったのだ。
 それから男は長い間考え続けた。

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