小説

『桜前線停滞中』原カナタ(『桜の樹の下には』)

 そして、自らの欲を確実に遂げるために準備を始め、統計を取り続けた。
 桜前線の少女は花を咲かせるために存在している。
 実体化している間は触れることが出来る。
 暖かい風の吹く方向に進む傾向がある。
 桜前線か通過した後は平均して二週間は咲き続ける。
 大体の位置は毎日ニュースで桜前線を教えてくれるので容易だ。
 実体化する気温、風速、気圧。
 実体化出来る条件を一定期間保てる場所。
 全ての用意が揃った年の春、男は決行した。
 そのとき男は既に社会人になり、気づけば三十二歳になっていた。用意を全て終わらせるには、そのくらいの時間が必要だったのだ。
 それは天気のいい、麗らかな春の陽気を含んだ空気の漂う日。
 桜前線の少女が現れるには絶好の朝。
 一歩、二歩、三歩。
 少女が歩けば、花が咲く。
 男は桜が好きだった。
 子どもの頃から慣れ親しんだいつもの並木道にハイエースに乗ってやってきて、桜前線を待っている。
 まだ日が昇ったばかりで、人通りは少ない。ランニングをしている人が通っていったくらい。
 心臓が鳴った。不規則になりそうなほど、早鐘を打っている。
 胸が痛くて、もはや吐いてしまいそうなほどの緊張に襲われていたが、やるしかないという気持ちで自分を発起させた。
 現れるのは、いつものように南側から。
 鼻歌と共に降りたって、ステップを踏みながら北へと上る。
 今年も少女は春を持ってきた。
 その美しさに見とれそうになっているところで、不意に我に返り首を振る。
 今日は、今日こそは、やらなければいけないのだから。
 少女が男の乗ってきたハイエースを通り過ぎるとき、男は動いた。
 男は桜前線に触れてトンと背を押し、少しだけ行き先を自分の車の方へと向ける。
 ハイエースのトランクを開けたところに置いた暖房器具から暖かい空気が流れてくる。その暖かい空気に引き寄せられるように少女は車に近付いた。
 一瞬不思議そうな顔をしたが、少女は意思を持たない現象なので、吸い込まれるように車に近付いていく。
 前に行くつもりだったのに、車へと引きずられていくものだから、少女の足はステップも踏めず、もつれてしまう。そこでトンとまた押してしまえば、車に置いていたガラスのケースへと転ぶように入ってしまう。
 そこですかさず蓋をする。
 男が車のトランクを覗き込むと、瞬きをしている少女がガラス越しに見えた。
 立ったまま少女の入った長方形のガラスケース。
 いわば、ガラスの棺。
 ただのガラスの棺ではない。
 桜の枝を敷き詰めたガラスの棺に入れ、蓋を閉めた。

1 2 3 4 5 6 7 8