小説

『時を盗んだ男』永佑輔(『貉』『時そば』『猫の茶碗』)

「それと、時報は午前十二時なんて言い方をしません。午前零時と言うんです」
 今やノッペラボウではなくなった蕎麦屋は、灯りを落とし、そして消えてゆく。

 何も見えなくなった男は誰かが通りかかるたびに助けを求めたが、一人のサラリーマンと一組のカップルを驚かせただけだった。

 カツコツ、とパンプスのかかとを鳴らしながら洋子がやって来る。
 男は心の声を使って呼び止める。
「その足音は、洋子か? おーい、ここだ。何も見えなくて困ってんだ」
「え? どうしてこんなトコにいるの? てか、何、その顔? チョー受けるんですけど!」
 男が説明すると、ワン、と犬が吠えた。
「顔がなくなったぐらいで落ち込まないで。人助けをしたんだもん、素敵なことじゃん。実はね、君のこと、意地汚い守銭奴のバカだと思ってた。でも、今は君と付き合ってよかったって思う」
 男は満面の笑みを浮かべた、かどうかは分からない。

 その晩、見つめ合うこともなければキスもない、もちろんその他のアレコレもなかったけれど、男と洋子は久々にベッドインしたのであった。

 翌朝、男は案山子になろうとしたがセンスがないので諦めて、屋台の蕎麦屋になり、新しい目と鼻と口を付けて洋子の待つマンションに戻った。
「どうだ、イケメンだろ? 客を騙して百円で買ったんだ」
「顔は変わっても、やっぱり性根はバカのままなんだね」
 洋子は荷物をまとめた。そして同時に男の前から消えてしまった。

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