機会を得てこの酒場を紹介された。部屋を提供してくれるというのだ。
ベットで寝れる。序でに味はともかく量だけはある賄いでも出れば最高だった。
宿代代わりに酒場の客への演奏会。ステラが流行のアコーディオン奏者だったかこその依頼。
だが客の反応はこの酒場雰囲気そのもの。
ここの客達は近隣の工場勤めの労働者野兎ばかり。皆、小さな小汚い丸いテーブルに肩身を寄せ坐り、丸まった背中は今日一日だけで老人と成り果ててしまった様。労働者野兎の長い耳は所在なげに垂れ曲がっている。
酒を片手にボリボリと痩せ細った人参を囓るだけだ。
皆が夢もなく生活に疲れ果てていた。それはステラのアコーディオン独演への乾いた拍手から分かる。
ハロルドは考えた。さてさて困った。こう客の反応が悪いと賄いの量にも影響しかねない。ここはと意気込んでハロルドはステラの横へと付く。二人でのアンサンブルだ。
見窄らし気な野兎達に向かってハロルドが挨拶を述べる。
今宵は私達の演奏を聴いて下さり有り難うございます。皆様はお疲れのご様子。
それならば疲れ切ったこの現世の事は今夜だけ暫し忘れ、夢と幻想の世界へと参りましょう。
夢の世界です。何の縛りも制約もなく、そして煩い奥様もいらっしゃいません。どうぞその心に重みとなる鎖を解きほぐし、音のまま心のままに弾んで参りましょう。
ハロルドはヴァイオリンを構えると視線でステラに合図を送る。あれをやろう。口に出さずとも彼の目がそう訴えかけるのが分かる。アコーディオンの伴奏が始まるとハロルドのヴァイオリンが弾んだ音色を弾き立てた。
クロード・ドビュッシー“子供の領分”ピアノ組曲。その第6曲から“ゴリウォーグのケークウォーク”を。
二人の音色は原曲よりもアップテンポに。歩調の間を持たずにスキップではなくステップを踏んでいる。
ゴリウォーグは絵本の中の子供の名前。ケークウォークは黒人ダンスの一種。
ハロルドは以前、カフェ・コンセールで黒人楽師達の演奏を拝聴した事がある。バンジョーで奏でる彼等、暑い国の民謡調の曲。本能から踊りざわめき立つリズム。心の底から感動した。彼はそれを再現しようとしているのだ。
聞き慣れない歩調の曲に思わず労働者兎達の垂れ下がっていた長い耳が立ち上がった。自然と心が揺れ、そして頭を、肩を揺らし始める。
ハロルドは調子が乗ると踊る様に楽器を奏で始めた。ステラも大袈裟に蛇腹を開いて演奏する。いつの間にか客席から手拍子も始まっていた。
澱んだ雰囲気が流れ始め、歓び飛んで酒場の空気を弾ませているのだ。
音楽と言えば再生機器の発展は20世紀に入ってからだ。19世紀にはレコードの元祖となる機器が発明されていたものの一般への普及はもっと後。
では昔の音楽媒体は何? と訊かれれば、それは“楽譜”だ。
現在らしい楽譜の様式が出来たのは13世紀か14世紀か。16世紀になって貴族階級の愛好家への楽譜の出版が普及していき“作曲家”という職種がクローズアップされてゆく。