小説

『カンタービレ機関車』洗い熊Q(『とむらい機関車』)

 旅の音色。在り来たりだが相応な題目だ。
 客室に向かい合わせに坐るハロルドとステラ。流れる景色を目で追いながらステラが呟くのだ。
 今度は何処に行くのハロルド? 彼女の瞳はまだ外界に向けられたままに笑顔だった。
 何処に行くか分からないのに君は笑顔に成るのかい? そうハロルドが含み笑いで言った。
 ステラは照れ笑いを景色に向けるだけだ。それを見て彼はふっと鼻で笑い彼女にまた訊くのだ。
 何が君を笑顔にさせるんだい?
 さあ。
 もしかこの先にあるものかい?
 もしかしたら。
 だとしたら君にはどうして分かるんだい? 先にあるものが。
 匂いが香ってくるのよ、きっとね。
 彼は彼女の答えにまた鼻で笑った。それに気付く様にステラはハロルドを見つめる。そして言うのだ。
 何か一曲、弾いてみせて。
 客車内で? 周囲に迷惑だ。
 軌条の音より迷惑な音色なの?
 彼女の返しに彼は致し方ないという溜息を吐いてヴァイオリンをケースから取り出すのだ。だがハロルドの顔は満更でもない顔。楽器を顎と肩で安定させ、摘まむ様に掴んだ弓を弦の上で滑らせる。

 ハロルドの選曲はメンデルスゾーンの無言歌集から“春の歌”。ピアノ独奏曲。

 音色が跳躍で揺れる鍵盤音の曲だが、彼は軽妙な弓使いでそれを表現した。
 彼が“春の歌”を選んだのは旅立ちを麗らかに祝う為にではない。彼女の笑顔から滲む仄かな温もりを現したかったのだ。
 隣人の客室の野兎達も、偶然通りかかる野兎車掌もピンと聞き耳を立てる。直ぐに彼のヴァイオリンの音色にうっとり。暫しの間、客車内に春の穏やかで麗らかな風が流れるのだった。

 

 蒸気機関車の発明は1802年で台車に高圧蒸気機関を載せたのが初めてだった。イギリスだ。旅客輸送で蒸気機関が登場するのは1825年。それ以前の鉄道とは馬が客車を引く馬車鉄道だったらしい。
 馬が引くなどそれはそれで情緒があっていいものだが。もしかして馬が鳴くからカンタービレ機関車?
 いやいや“機関”が付くのだから機械機構でなくては成らない。
 しかしこの蒸気機関鉄道の登場を代表する様に19世紀は産業と科学と実証主義という発展の社会だ。
 神話や幻想の世界からの脱却。超越的な存在を排除しようとする思想の中で、空いてしまったその超越という穴を埋めていたのは音楽かも知れない。
 その時代に音楽で多く表現されたもの。そうロマンチックな世界だ。

 

 薄暗い陰気な雰囲気の酒場。場所が悪いのではない、そこで杯を交わす客達の吐く溜息によって澱むんだ。
 ハロルドとステラは到着した土地で宿を捜した。夜露を避けられるだけでもいい。この土地にはそうそう長居するつもりはなかった。

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