小説

『カンタービレ機関車』洗い熊Q(『とむらい機関車』)

 この様式の始まりは“グレゴリオ聖歌”から始まるオルガヌム芸術であろう。始めは人ではなく神に捧げるのが音楽だった。
 音という跡形もなく消えてしまう存在に、紙面に残し受け継げられた不朽の大いなるイメージは膨らんで音は理論となり、人々へ舞い降りて、伝播と供に芸術となった。
 だが今も昔も。
 その一つの音にある想いには論理も願いも同格で込められていると信じる。その純情たる想いが人々にそう呼ばせるのだ。“カンタービレ機関車”だと。

 

 賑やかな市場通りから僅か外れた石畳の道。ステラは段差低い階段に腰を降ろして道行く者達を眺めている。
 昨晩は遅くまでの演奏。朝になっても疲れが抜けきらない彼女は待ち惚けだ。ハロルドが気遣って買い出しに付き合わせなかった。
 大きな通りに響くのは馬車馬の闊歩な音。行き交う話し声。物売りの呼び声。変哲のない光景だ。だがステラはそれを懐かしくも新鮮にも感じる。
 所在なげに坐る彼女に興味を持ってか、大きめで野暮ったい服装の子兎が小生意気に帽子の鍔を押さえ声を掛けていた。
 お姉さん、何してるの? 仕事探してるのなら紹介するぜ。
 あら、ありがとう。でも私は職に困ってはないのよ。
 そうかい。でも何か困った事があるなら俺に言ってみな。大抵の事は解決できるぜ。
 ステラは老成た小さな案内人の啖呵に思わず笑ってしまっている。
 それじゃあ子兎さん。一つ私のお願いを聞いてくれるかしら?
 ああいいとも。お姉さんならタダでもいいぜ。
 小さな鼻穴で息巻いて快諾する小さな案内人。彼女は微笑みながら脇に置いていたケースからアコーディオンを取り出す。それは使い込まれ鍵盤もやや黒ずみ、盤面も独特の光沢があった。
 何だ、お姉さん。演奏家か?
 そうよ。たった一つのお願い。それは私の音楽を聞いて欲しいの。
 蛇腹から収縮された空気が特有のテヌートで伸びやかな伴奏が始まる。石畳の上に彼女の演奏が響いた。

 モーリス・ラヴェル“ピアノ協奏曲ト長調”第二楽章。
 軽快な第一、第三楽章とは異なるホ長調の古典的な曲調。

 浮遊感があり繊細な冒頭の旋律。終盤にかけてそれは幾何学に変わる。協奏曲をアコーディオン単音での表現は難しいが、彼女は曲の印象を損なう事はしなかった。
 感傷になりすぎない曲。先鋭的な印象ながら心底には回想録にも似た、前衛音楽に対するオマージュがある。そしてそれは彼女のメモワールをも揺れ動かすのだった。

 元々ステラは貴族出の裕福な家系に産まれた。幼い頃から上流の象徴の様にピアノを習う。その頃は実家でサロン的な演奏会もしていた。
 しかし時代の急速な流れに家系は没落。瞬く間に貧相のどん底へと落ちて行った。

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