小説

『カンタービレ機関車』洗い熊Q(『とむらい機関車』)

 その後は階級という垣根がなくなり市民への音楽へと。そうなると多様化だ。19世紀後半になって場末の音楽と言うべき大衆音楽が華を咲かせた(フランス印象派音楽がそれだ)。そこからまた差別化が始まる。
 現代になって前衛音楽という形式。古典音楽演奏の拝聴。そして娯楽音楽と。
 演奏の拝聴とは“誰が何を演奏するか”。不明瞭な現代音楽に辟易とした愛好家が巨匠の名演に救いを求めた結果。
 娯楽音楽は正に今の時代だ。ロマン派音楽を踏襲した大衆に感動を与える系譜。ポピュラーとはクラシックの延長線上にある音楽なのだ。
 楽譜の無い時代は音楽は“演奏者”の独占だった。それが“演奏家”と“作曲家”という流れになり。そして音楽は一人のものではなくなった。金銭が絡むと何一つ音楽というのは自由になれない。
 全ての人々に音楽を届けるという純な過去の願いは、それを本人が捨て去る事で叶うという皮肉な時代になったのだ。
 でも消え去ってはいないんだろう。全ての人に感動を、想いを届ける。嘲笑為てしまう程の純然たる願い。それがロマンかも知れない。

 

 軽妙で痛快な音楽に酒場は盛り上がった。澱んだ雰囲気は何処へその。心からの笑いが起こり、心底に酒を嗜もうとの乾杯の響きに溢れる。そう野兎達は楽しんでいた。
 ハロルドはそれを大事に、そして更にと愉快で気分の良い曲を続ける。ステラも笑顔でそれに着いて行った。
 盛り上がりが最高になるのは夜半を過ぎた頃だった。頃合いを見計らってハロルドは曲調を激変させる。それはもう就寝の時だと。心地よい夢心地は本当の夢の中へと。彼から野兎達への子守唄だ。

 フレデリック・ショパン“ノクターン(夜想曲)第2番変ホ長調 作品9ー2”。ピアノ独奏曲。

 技巧面でも多彩なショパンのピアノ。それを彼は弦でゆったりと音色を紡いでゆく。温かみは少ない。でも決して冷たくなく清らかに。優しさを持った気持ちの良い夜風なのだ。
 伴奏をするステラもその清き風に揺れる。
 今間では花園中のブランコに軽快に揺れ遊んでいたのが、魔法の様に全てが星空へ変貌していた。何処までも続く星空の絨毯から来る夜風が揺らしてくれる。
 その背後を振り見れば、とても大きく光る満月が見守っていた。蒼い光は何よりも優しい。
 蒼い満月の夜空の世界からの音楽は、うっとりと聞き惚れる野兎達を温いベットへと誘う唄となったのだ。

 

 音楽という形式の説明だけで肝心のカンタービレ機関車が出てこない。要は“楽団を乗せる機関車”がそうではないかと言いたいだけだ。
 その時代は多かっただろう、演奏旅行で方々へと向かう楽団達。
 純然たる“音楽への感動”を届ける為の旅路。しかし楽団を乗せるだけで特別とは都合が良すぎる解釈ではないか。それならば巨匠の名でも飾り付ければ事足りる。
 わざわざカンタービレという愛称。もっと気の利いた説話が欲しいと思うのが人情だ。
 だからこそ長々と音楽の昔話に思いを馳せていた(だが音楽の起源に要点を置くと壮大になる。現代音楽との総点という考えで西洋音楽を中心に考えた)。
 現在は音楽の飽和状態だと言えるのか。様々なジャンル。地球の裏側まで届けられる音源媒体。一つの閃きで誰でも発信できる贅沢な世界。

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