小説

『水鏡』藤田竹彦(『死神の名付け親』)

「そこを何とか、この通り」手を合わせて死神を拝む八郎。考え込む死神。
「浮世に何の未練があるんだいお前さん」
「今一度、女房を抱いてから死にてぇんですよ」
 正座した両膝に置いていた両手で股間を抑えながらも真顔で応える八郎。その姿にため息をつく死神。
「おまえさん、飲む・打つ・買うの挙句に女房が愛想尽かしたんだろ?」
「ええ、まぁ」ばつが悪そうに頭をかく八郎。
「人の性(さが)かねぇ、それともお前さんの業なんだか…」
 大鎌を横に腕組みをして考え込む死神。固唾を飲んで死神を見つめる八郎。
「あった!ひとつだけ打つ手があるよ」手を打って死神が言った。
「ほんとですか?」身を乗り出して尋ねる八郎。
 背筋を伸ばし、ひとつ咳払いをする死神。
「何かひとつ徳のある善行を明日の暮れ六つまでにやっておいで、そうすればひとまず三日分寿命が延びる」八郎に言い聞かせるような口調で死神が言った。
「三日…」今度は八郎が腕を組んで考え込む。
「何だい、不満そうだねえ」と死神。
 死神の言葉に腕組みを解く八郎。
「三日ありゃ、女房を連れ戻して抱けますよね」
 八郎の言葉に苦笑する死神。
「お前さん、もう少し真面目に生きてたら長生きできたんじゃないかい?」
「まあ人それぞれの人生だ、死ぬ時は惚れた恋女房を抱きしめて!と決めていたんで」笑
 顔で死神に応える八郎。
「そうかい、そんなもんかねぇ」つられて笑みを浮かべる死神。
「そんなもんですよ、さっ明日は善行、その後で女房子供を迎えにいかなくちゃ」
 洗面器を台所にいそいそと運ぶ八郎。部屋に戻るとローソクが消えない様に注意深くテーブルを隅に寄せ布団を敷いて横になる。
「そうと決まれば早寝早起き」そう言って八郎、火の用心とばかりに上体をお越しローソクの炎を吹き消そうとして慌てる。
「いけねぇ、いけねぇ、危うく自分の寿命を吹き消すところだった」
 肝を冷やす八郎。部屋の隅にはくしゃくしゃになった競馬新聞が転がっていたが、そこに死神の姿はなかった。

○芝浦四丁目・周辺
 暑さの届かない早朝から身ぎれいにした八郎が道行く人すれ違う人に『おはようさん』と声をかけながら新芝運河沿緑地辺りから芝浦四丁目を歩き回り、何やらせわしなく物色をしている。
 芝浦四丁目の交差点で信号待ちをしている老婆を見つけた八郎。老婆は信号が青に変わっても、車の流れを気にして横断歩道を渡らない。老婆を眺めしめたと手を打つ八郎、彼は老婆に近づき声をかける。
「お婆さん、ここの横断歩道は長いのに青信号が短くて困りますよねぇ、ひとつ俺が向こうまでおぶって連れてってあげるから…ね、はいどうぞ」

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