小説

『手の鳴る方へ』焉堂句遠(『桃太郎』)

 男は申し訳なさそうに、浴室のドア越しに頭を下げた。
「あ、これ着てください」
 ドアの隙間から、ビニール袋を渡される。
 そこには、まだ封を切っていない下着類が入っていた。
「このご恩は必ず……」
「実は鶴だったパターンですか?」
 男がぽかんとしていると、「小粋な昔話ジョークですよ」と女がつまらなそうに返した。

 半濡れでパンツを履いた男が、濡れた女と正座で向き合っている。
 テーブルの上には、何故か食パンとジャムが置かれていた。
「なんでそんなに濡れているんですか?」
「コンビニまであなたの服を走って買いに行ったので。走るのに傘は邪魔でしょう」
 「おぉ?」と男が慄いた。
「ちなみに、怒っていないのですか?」
「何についてですか?」
「こんな台風の中、呼び出した件についてです」
 男はキョトンとしている。
「いや、安心しましたよ」
 「はっ?」と女が聞き返した。
「何かトラブルに巻き込まれているかもと考えていたので、安心しています」
「馬鹿なんじゃないですか?」
 そう言うと、女はキッチンに向かった。
 ごそごそと音がした後、女がミルを持って戻ってきた。
「これ、ゴリゴリやってください」
「ゴリゴリ?」
 女が取っ手を回すジェスチャーをする。
「あぁ、ゴリゴリ」
 男がミルを力強く挽き始め、部屋はコーヒーの乾いた匂いに満ちていく。
「ひとまず」
 女が言い切るように呟く。
「ひとまず、コーヒーでも飲みますか」
 大きな風が通り過ぎる音は、止まない。

 男は、混乱していた。
 この状況は、どのような意味があるのか。
 女はどのような意図を持っているのか。
 なぜ、婚活サイトで会った男を、軽々と部屋に入れているのか。

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