小説

『手の鳴る方へ』焉堂句遠(『桃太郎』)

「きっと、あなたの心の底には、いや、生きている人は皆、意味や構造を決める装置を持っているんだ。でなければ、こんな混沌とした世界を生きれない。あなたはそれを見たくない」
 女は立ち止まり、初めて男の顔を見た。
「僕も同じです。構造に当てはめ、配慮と差別の違いも解らず日々生きているのでしょう」
 男は虚しく笑う。
「その装置を意識することは、不快だ。でも、その意識を持たなくても、あなたは他人を傷つけているし、自分を傷つけている」
「優しさは時に暴力的ですね」
 女は向かい合ったまま、無表情に答えた。
「これで私がブスだったら、あなたはこんなに興味を持たないでしょう。たまたま私が幸薄そうだから、励ましていい気分になろうと思ってる。自己満足のために」
 「でも」と男は女の鋭い言葉に答えず続ける。
「傷つけることを恐れ、全てに意味がないと思い込もうとしているあなたは」
 男が女に伝えたいことは、唯の一言だけだった。
「誰よりも優しい」
「ところで」
 男が唇を閉じると、女は首を傾けた。
「なぜあなたが、悲しい顔をしているの?」
 女は手を伸ばし、男の顔に辿った涙を指で優しく拭う。
「僕だって、傷つけているという自覚は怖い」
 か細く震える声。
「あなたが言うように、全ての物事、人生に本質的には意味がないのかもしれない」
 滲む靴先。
 意味を積み上げた人生が、崩れることなく、ただ黒い洞穴に飲み込まれる虚無。
 洞穴の淵で足掻く、女の指先を、今なら。
「だけど、人生に意味がないから……意味がないからこそ、自由に人生の意味を自分で作れるんだ。もし「正解の人生」が決まっていたら、窮屈でしょうがない」
 通行人は自由から逃げるように、各々の目的地へと二人を通り過ぎて行く。
「もし私が過去に意味をもたせてしまったら、あなたと一緒に歩む未来はないでしょう」
 女は嗤った。
「なんでですか?」
「簡単な話です。鬼は恨んでいるのです。平穏な世界をブチ壊した桃太郎という概念を」
 女は、無意識に咥えたタバコを、乱暴に箱に戻す。
「私は過去に意味がないと思っています。過去に意味がないのなら、未来にも意味をもたないということで、過去と未来に意味がないのなら、今この現在も意味がないということになりませんか?」
「そこは、なんとかなりませんか?」
 急に男が子供のような目で女を見つめる。
「何それ?」
 と、女が淀んだ都会の空気と共に吹き出した。
「僕とあなたなら、なんとかなるんじゃないですか?」
 面白いね、と女は初めて心から朗らかに笑った。

 男と女の新居に、マスコミと野次馬が群がる。
 男が書いた「婚活成功レポート」がネットで駆け巡っていた。
 「世紀の和解!桃太郎と鬼の子孫が結婚!」
 スマホで記事を見た男が慌てて婚活サイトに問い合わせても「承認した利用規約に入っています」を繰り返すのみ。

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