小説

『手の鳴る方へ』焉堂句遠(『桃太郎』)

 男は、この後の連絡手段はラインで良いのだろうかと案じていた。

 男は、出会った翌日から、積極的に女を誘った。
 女は、字面を見るだけで満腹で吐きそうになるぐらいに想いの篭った男からの誘いを開くことなく、未読のまま置いておいた。
 女はできれば、無意味な人生を、無意味のまま終わらせたかった。
 例えば、ただインスタグラムを呆然と眺め、たまにプレ花嫁とか検索して、「よしよし世界は今日も平和だ」と確認する神様のように。
 例えば、ネットフリックスで無意味な海外ドラマを見ながらソファにうずまって朽ちていくように。
 例えば、クラブに行って適当な男と一夜を過ごすように。
 ランダムに現れる小さな刺激をただ呆然と眺め、過ぎる。
 女がいくら未読を積み、たまに冷ややかなコメントを返したとて、男はどこか心が壊れているのか、全く気にせず明るいスタンプを送ってくる。
 すぐブロックしても良かったが、それはどこか、捨て犬を蹴り殺すような感覚に触れ、憚れた。
 あぁ、面倒だ。
 女はソファに寝転ぶ。
 現代のコミュニケーション不全を象徴したような、すれ違いの記録をぼんやりスクロールする。
 洗濯機が鳴った。
 時計を見れば、夜の十時を回っている。
 何か食べようかと、値引きシールのついた食パンを取り出した。
 ジャムの蓋に手をかける。
 回る気配がない。
 少し力を入れて回す。
 開かず、手にくっきりと蓋の跡だけがついた。
 追い立てるように、洗濯機が鳴る。
 女はジャムを机に置き、ふと考えた。
 私はこれからも、着実に老いて行く。
 さらなる握力の低下は、ジャムの蓋を開けることすら、いよいよ絶望的にさせるだろう。
 些細な未来の絶望が、未来に留まらず、徐々に今の私へと黒く広がっていく。
 これは、厄介だ。
 とても、厄介だ。
 無意味に付けていたテレビから、台風の接近が報じられる。

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