小説

『堪忍卵』虹埜空(『堪忍袋』)

「どうしたのこうちゃん、とげとげしちゃって。会社で嫌なことあったの」
「あああったよ、だからその卵がいるんだよ。いいから離せって馬鹿!」
 母の持っている堪忍卵が斉藤の怒声を吸った。使う度に少しずつ大きくなっていた卵の雑音が、その時はっきりとした音量であらわになった。それは人の声だった。

 ふざけやがって
 許さない
 おれのせいじゃない
 近野のせいだ
 課長が悪いんだ
 会社が悪いんだ
 社会が悪いんだ
 何もかもくそくらえ

 それは、斉藤の声だった。今まで散々卵に吸わせてきた、斉藤自身の罵りだった。斉藤は直感する。俺の不平や不満はなくなってすっきりしたんじゃない。卵に閉じ込めただけだったんだ。それは卵の中で幾重にも反響して、ゆっくりと成長し、言葉としてはっきりと認識できるほどになっていた。いわばあれは俺の頭の中身だ。いつの間にか堪忍卵は、俺の頭として成長していたんだ。あれは俺の頭だ!

『死ね』

 いつか吸わせた呪詛の言葉が、あの時はそれほどの意味も込めていなかっただろう言葉が、今や鋭利な刃に育ちきって響く。それは母親を驚かすのに十分だった。
「ひゃっ……!」
 だから故意だったのか、それとも手を滑らせたのか、とにかく母は堪忍卵を放り出すようにして手から離した。斉藤があっと思った時にはもう卵は床にたたきつけられる寸前で――
(堪忍卵が割れる!)
 斉藤が何か考えたのは、それが最後だった。

 
 翌日。自宅で変死した男のニュースが流れていた。彼の頭は粉々に割れて死んでいたという。まるで床にぶつかって砕けた卵のように。

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