小説

『堪忍卵』虹埜空(『堪忍袋』)

「なあ近野、前に話してた堪忍卵なんだけどさ」
 ある時、なんだかんで付き合い続けている飲みの席で、斉藤は近野に言った。
「あれ俺も買ったんだ」
「マジか! 効くだろ、あれ」
「うん。愚痴ったらすげーすっきりする。不思議だな」
「えげつねえこと言ってもびくともしないもんなー。やっぱさ、口に出すのはちょっとっていう言葉でも、吐いちまえばすっきりするんだな。こまめにガス抜きして、爆発しないようにするのが大事だって俺はあの卵から学んだね」
「お前は普段からガス抜き過ぎでスカスカだろ」
「あっ、ひでーなー斉藤。卵に愚痴ろう」
「そうしろそうしろ」
 けたけた笑ってハイボールのジョッキを傾けた。近野も同じように笑っていた。

 初めて異変を感じたのは、堪忍卵を使い始めて二週間ほど経った頃だった。
 卵から何か音がする。
 なんだ? 斉藤は卵を耳に近づけた。よく注意しなければ聞き取れないほどの大きさだが、波音のような、周波数の合いそうで合わないラジオのような、遠いざわめきが卵の中から聞こえてくる。
「まさか何か生まれてくるんじゃないだろうな」
 どきりとして卵を見つめたが、そういう気配はない。いつものように愚痴を吐けばすかっと気分は良くなったから、効果も変わりない。
 気のせいだろう。疲れていて俺の耳の調子が悪いのかもしれない。
 斉藤はそう結論付け、堪忍卵を使い続けた。
 実際、何も問題はなかった。ただ卵から漏れ出る音は、ほんのわずかずつだが大きくなっているような気もした。遠いさざ波だったのが強い風の音にも聞こえはじめ、小学校から届く子供の声や遠雷のように聞こえる時もあった。
「そうか、斉藤の堪忍卵もか。実は俺のもなんだ」
 このささやかな異変について近野に話すと、彼は神妙な顔でうなずいてくれた。近野の堪忍卵も似たような状況らしい。
「スクランブル交差点の真ん中にでも立ってるみたいな、がやがやした感じの音が常に鳴ってる」
「うーん、そこまではうるさくないけど」
「俺はいい加減うんざりしてきたよ。便利なおもちゃだと思ってたけど、いよいよ壊れちゃったのかなー」
「でも効果は変わらないだろ?」
「まあな。しかし音が鳴るのは駄目だな。このまま直らなかったら、目玉焼きにでもして食っちまおうか」
 はははと近野が笑いながら言う。だから冗談のつもりだと斉藤は思い、おいおい食えるのかよあんなもん、と笑って応じた。

1 2 3 4 5 6 7