小説

『堪忍卵』虹埜空(『堪忍袋』)

「こないだ酔っぱらった日に買ったやつか……あれ夢じゃなかったんだ」
 泥酔した頭でも、一応鞄から出して机の隅に転がしておく判断はできたらしい。自分の不満を聞かせれば代わりに堪え忍んでくれるというおもちゃの卵。ばかばかしすぎて捨てるのすら忘れていた。
 まさか、と思った。恐る恐る卵を手に取る。卵は何の変哲もなく、すべりとした冷やかさをもって斉藤の手の中にあった。まさか、この卵が、俺の怒りを吸った……? せっかく五百円払ったんだし、ちょっと試してみようか。
「あの課長さ」
 半分怒り、半分興味で構成して吐き出した言葉は、わずかに震えていた。
「ひでえんだぜ。うちの会社のミスで取引先に迷惑かけたことがあったんだけど、先方に謝りに行くって出てって、そのまま真っ直ぐ帰宅しやがったんだ。みんな会社で課長の連絡待ってたのに。人身事故で電車が止まっててとかなんとか言い訳してたけど、それもどこまで本当だか」
 考えただけでその時のイライラが湧きだす。小さな子供がいる社員や明日の早い者を見送って、斉藤は課長を待っていた最後の一人だった。しびれを切らして課長に「謝罪どうでしたか。今どこですか」とメッセージを送ったら、十五分後に「帰宅しました」と返ってきた時の感情の爆発は、今でも鮮明に思い出せる。と胸の中にむかむかと怒りの炎が燃えあがった瞬間、すこん。急にその熱が持っていかれた。何に? ……今この手に握っている、堪忍卵に、だ。
「マジかよ……」
 酒の席で堪忍卵を見せ、これが結構よく効くんだ、と得意げに語っていた近野の顔が思い浮かんだ。科学的にストレスを吸収する素材が発明されたのか、それとも単純に不満を口にしてすっきりしているだけなのか。原理は分からないが、確かにこの卵が自分の代わりに「堪え忍んで」くれているらしい。
 斉藤はハンカチを持ってくるとそれで水色の卵を包み、机の奥の方に丁寧に置いた。

 
 堪忍卵の効果は絶大だった。この卵に愚痴をこぼせば、うそのように胸がすっと晴れる。自分の保身しか考えていない課長、取引先の横柄な態度、会社が一向に改善しようとしない古臭いシステム。日々の仕事で一人堪え忍んできた苛立ちと不満を、聞いてくれる卵が家で待っていると思うだけで心が軽くなる気がした。斉藤は何度も堪忍卵の世話になった。
 斉藤が卵に吐き出す内容は、次第に会社を出て、ささいな日常にまで及ぶようになった。電車で座席二つ分のスペースを使って足を広げているおっさんがいてむかつく、近野にまた飲みに誘われてうんざり、立ち寄ったコンビニでいつも買っている菓子が売り切れていて腹が立つ……。
 中には斉藤の認識にも非がありそうな内容のものもあったが、堪忍卵はどんな話でも黙って聞き、不平不満を吸い取ってくれた。すこんと気持ちが軽くなる瞬間が面白くて、斉藤はますます小さな罵りを持ち帰り、あまり上品ではない言葉で堪忍卵に浴びせるようになった。

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