小説

『堪忍卵』虹埜空(『堪忍袋』)

「心に過る怒り、悲しみ、憎しみ、苦しみ……他者に見せるにはおぞましい秘め事を、この卵にお聞かせなさいませ。卵が貴方の代わりに堪え忍び、貴方の心を軽くしてくれるでしょう」
 近野の言っていたことと同じだった。斉藤はふーんと気のない声で答えつつも、老婆の前にかがんで卵の一つを手に取った。水色のそれは、やはりただの鶏卵に絵の具を塗っただけのようだった。
 斉藤は「堪忍卵」の札に書き添えられた「五百円」の文字を見た。
 酒が入っていたからだろう。まあそんなに大きい額でもないし一興に、と思ってしまったらしい。斉藤はおもむろに財布を開け、淡い枯葉色の硬貨を一枚、老婆に差しだした。
「ありがとうございます」
 老婆は骨ばった手で金を受け取ると、浅く頭を下げた。
「鶏の卵よりは多少頑丈ですが、卵は卵です。割れることのないよう、十分お気をつけくださいませ。特に卵をよく育てた後は、くれぐれも」
 うん、と斉藤は短くうなずき、路地裏を後にした。通りに出る直前、ふと振り返ってみると、老婆も敷布もいくつもの卵も、露天商の存在はどこにもなくなっていた。

 
 昨晩はやはり飲み過ぎたらしい。あの後帰宅した斉藤は、なんとかシャワーだけ浴びて倒れるように布団に入った。今朝も母親が起こしてくれなかったら危うく遅刻するところだった。まるで小学生のようだったが、こういうのが実家暮らしの利点である。仕事中も気だるくて頭痛がした。完全に二日酔いだった。だから堪忍卵のことはすっかり忘れていて、思い出したのはあの露天商に立ち寄った三日後のことだった。
 その日、斉藤は会社でひどい失敗をした。役員会議に使う資料の作成を頼まれていたのだが、使用したデータが十年も昔のもので、とてもではないが役に立たなかったそうだ。役員会議の後で部長から散々注意を受け、斉藤はしょんぼりと帰宅した。
「課長が悪いんだ」
 大きくため息をつきながら、斉藤は自室で誰に語りかけるでもなくつぶやいた。
「俺は課長が渡してきたデータを使って資料を作っただけだ。そもそも課長のミスじゃねえか。なんで俺ばっかり怒られなきゃならないんだ」
 口にすると余計に怒りが湧いてくる。そうだよ、と斉藤の独白は止まらなかった。
「課長はいつもそうだ。いつも自分のミスは認めないで、上手く部下になすりつけるんだ。俺が部長に呼び出されるの横目で見てたくせに、お先に失礼しまーすじゃねえよ。あー腹立つ!」
 ばん、と語気荒く机をたたいたその時だった。ぴりっと空気が震えたような気がしたと思った次の瞬間、すこんと怒りの感情が抜けた。なんだ、何が起きたと驚いて走らせた視線の先、机の上に、水色の卵があった。

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