小説

『堪忍卵』虹埜空(『堪忍袋』)

(堪忍卵……?)
 それはたまたま持っていたパズルのピースをはめこんだら、欠片の色合いからは予想もしない不気味な全体図が見えてきたような心地だった。
 突然死んだ近野。その死体の側に落ちていたという割れた卵。朝飯に目玉焼きを作ろうとしていた? 確かに彼は目玉焼きを作ろうかと言っていた。壊れて雑音が鳴り始めた堪忍卵を使って。
 堪忍卵を目玉焼きにしようとして、近野は死んでしまった?
(ばかばかしい)
 斉藤は大きく息を吸ってヒートアップした脳味噌に酸素を送りこんだ。
 堪忍卵はただのおもちゃだ。仮に割れた卵が堪忍卵だったとして、それが近野の死と関係あるはずがない。どうも朝から騒々しくて、近野の死のショックに加え、仕事量は多いわパートのおばちゃんには絡まれるわで疲れているらしい。
(やっぱ帰ったら堪忍卵に思いっきり愚痴ろう)
 そして堪忍卵に苛立ちを吸ってもらった後の爽快な気分を思い出せば、浮かび上がりかけた不気味な絵など脳裏から追いやることができた。もっとも追いやっただけで、絵が消滅したわけではなかったのだが。

 退社時刻は午後九時を過ぎていた。ぐったりした体を引きずって電車を乗り継ぎ、やっとの思いで自宅の玄関を開ける。
「ただいまー」
 いつもならおかえりと返してくれるはずの声が、今日はなかった。母親はもう寝てしまったのだろうか。その割には電気もテレビもつけっぱなしだった。薄気味悪くしんとしたリビングに、テレビ番組の乾いた笑い声が響いている。
 頭がぐったりと重かった。とにもかくにも堪忍卵にこの不満を吐き出してすかっとしたい。斉藤はいそいそと二階の自室に上がった。部屋の扉を開けた瞬間、びくりとして息を飲む。
「母さん。なんで俺の部屋にいんだよ」
 普段は滅多に部屋に来ることのない親だった。斉藤が思春期に入った頃、掃除も自分でするからという言い分をすんなり承諾して以来、好きにさせてくれている。
「ああ、おかえり。遅かったのね。いえね、こうちゃんの部屋から話し声がするから、音楽プレイヤーでもつけっぱなしなのかと思って」
「話し声?」
 長年自分の好き放題にしてきた部屋には、当然不用意に他人に触られたくないものもある。プライベートな領域に土足で侵入されたむずがゆい気持ちに体をかりかりと焼かれながら、見れば母親の手の中には水色の卵があった。斉藤の気持ちをすっきりと晴らしてくれる大切な堪忍卵。それが勝手に他人に持たれているのが、疲れていたからだろうか、その時は妙にしゃくにさわった。
「これ、新型のスピーカー? 面白いわねえ。でもちょっと壊れてるみたいよ」
 卵からは確かに音がもれている。ざわざわと人の話すような、遠景のビルがゆっくりと崩れていくような、堪忍卵を使い始めてからしばらくして発生した、奇妙な雑音だ。
「離せよ」
 卵から聞こえる音が少し大きくなる
 斉藤の苛立った声に母は少し驚いたようだった。だから半分壊れたおもちゃのスピーカーを手離すよりも先に、息子の状態を心配した。

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