小説

『堪忍卵』虹埜空(『堪忍袋』)

 そう書かれている立札を、駅の路地裏にあるいかにも怪しい露店商で見かけた時、斉藤浩一(さいとうこういち)が近寄ってしまったのはたぶん酒が入っていたからだろう。あるいはその飲み席で、同期の近野(こんの)から聞いた話が妙に頭に残っていたからかもしれない。あまり酒に強いほうではないくせに「二十代のうちに飲めるだけ飲んどかないと」とよく分からない理論を展開してどんどん酒を飲む近野は、チューハイを二杯ほど入れた辺りでもう出来上がって、やたら喋るようになる。
「見ろよ斉藤、すげえものゲットしたんだよ」
 近野は得意気に鞄から何かを取り出して見せた。
 それは何の変哲もない茶色い鶏の卵だった。
「ただの鶏の卵だって思っただろ。違うんだなー。これはな、堪忍卵っていうんだ」
「堪忍卵?」
「こいつに向かって日頃溜めてる愚痴を言うとな、卵が愚痴を吸ってくれてすっきりするんだ。駅の路地裏に露店が出ててさ、そこで買ったんだよ」
「はあ」
「いやいや俺もさ、最初は胡散臭いなって思ったよ。でもまあそんなに大きい額でもないし一興に、と思って買ってみたらさ、これが結構よく効くんだ」
「卵に向かって愚痴ってすっきりするってか」
「そうそう。何なんだろうな。リラックス効果のある素材で出来てんのかな。最近の科学ってのはすげえもんだ。結構面白いおもちゃだよ」
 斉藤はその時は本気でくだらないと思って大した相槌も打たなかったし、近野も酔った勢いで次々に話題を思いつくから、卵は近野の鞄に戻されてそれきりだった。
 けれどもやはり心のどこかで気にはなっていたのだろうか。薄暗い路地裏に置かれた「堪忍卵」の札に目を留める程度には。
「いらっしゃいませ」
 気がつけば斉藤は、露天商の前に立っていた。あせた紫色の敷布に座った老婆が、ゆっくりとこちらを見上げつぶやいた。
「堪忍卵をお求めでしょうか」
 敷布の上には老婆の他に数個の卵が乗っていた。白や茶色の本当にただの鶏卵にしか見えないのもあれば、淡いピンクや黄色、水色に染まったのもあった。
「……何ですか、堪忍卵って」
 斉藤は老婆に問うた。老婆はにやり、微笑んだ。

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