小説

『鈍い痛み』黒藪千代(『一寸法師』)

 浴室のドアが勢いよく開いて、再び仰け反るとパジャマ姿の妻が目を見開いて立っていた。
 白いヨダレの跡が、妙にくっきりと浮かび上がっている。
「おっ、あっ、だ、大丈夫だ。ごめん」
「ほんとに?もう夜中の3時だよ。早く上がってベッドで寝てよ」
 妻の声に、湯船に浸かったまま2時間近くもうたた寝をしていたんだと知った。夢だったのか、小さい人。
 すっかりぬるくなった湯船から出て身体を拭きながら鏡の前に立った。左耳を念入りに確認する。が、特に変化は見られずほっとしていたら、首筋に点のような跡が数個、薄らと赤く、痒みを感じた。
 もしや、小さな人が持っていた剣のような刃先でつつかれた跡?
 いや、いやいや、あれは夢なのだからそんなはずはない。
 頭の中から、小さい人の面影を払い除けてベッドに潜って眠った。疲れているのだ。きっとそうに違いない。そう自分に言い聞かせるようにして。

 翌日、いつものように出社すると終盤を迎えたプロジェクトの最終会議に挑んだ。来週行われる社内プレゼンに向けて各担当のチームリーダーとその部下達も交え総勢30人余りの打ち合わせ会議だ。
 会議と言うものは、人数が多ければ多いほどまとめるのが難しい。プロジェクトリーダーとしてのオレの能力が問われる。今日の日を迎えるまでのこの数ヶ月間の苦労が脳裏をよぎり、必要以上に肩に力が入っているのを感じて、休憩室に飲み物を買いに向かった。
 いつもの缶コーヒーのプルタブを引くと、左耳の下に(ピキーンっ)と痛みが走る。首筋に手を当てると、小さな凸凹が指の腹で確認出来た。
 夕べ風呂上りに鏡で見た赤い点を思い出す。えっ、成敗?一瞬過る小さな人の顔。
 痛痒い感じに首筋をゴシゴシと擦りながら、会議に向かった。

「なんで今頃になってそんなしょうもないミスが見つかるんだよっ!やる気あんのかっ!」
 アンケートの集計で、流れるような曲線を描くはずのグラフが一部分で大きく九の字に曲がっていた。グラフに反映されるデータの入力ミスだ。
 初歩的なミスは、幾重ものチェックで解消できるはずなのに、こんな最終段階で露呈された事が許せなかった。オレは部屋中に響き渡る勢いで怒鳴っていた。怒り立つ自分の声に、はっとして周りを見渡すとみんな俯きオレと視線が交わらないようにと避けている。
 同期入社の田辺までもが、一瞬合った目を逸らした。いつもなら、いい年をして変顔のバリエーションを増やすたびおちゃらけて場を和ませてくれるのに。
「今日は止めだ!各部門、もう一度最終チェックと修正をしてから会議にする!明後日までに準備を整えろっ!」
 引っ込みがつかなくなって、思わず余計な怒りまで吐き出してしまった。

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