小説

『鈍い痛み』黒藪千代(『一寸法師』)

 終電を降りて最終バスに乗るために走った。
 バスを降りて家路への道を歩きながら見上げた空には、虹色に光る真ん丸の満月が辺りを照らしていた。
 思いがけない光景に連日の残業の疲れがほんの少し癒される。
 この三ヶ月休日出勤が続いてヘトヘトの身体。社を上げてのプロジェクトの途中でリーダーだった部長が奥さんの入院で、長期休暇を取る事になった。部長は頼むぞと、次のリーダーとしてオレを指名した。
 名誉な事だが、部下からの信頼が厚かった部長の後任はやりにくい部分もあり、正直引き受けた事を後悔した時もあった。だが、それもあと数週間で終わる。もうひと頑張りだ。
 虹色の光を放つ満月に励まされたようで、ほんの少し気力が戻って来る。

 家族の寝静まった家に帰り着き、すぐに風呂のスイッチを押した。
(うぅやぁ~)さぶんっと湯に浸かると温もりが身体を包む。中年オヤジらしいうめき声が漏れた。オヤジと言うにはまだ早い。やっと40歳を超えたのだ。だが確実に中年だ。
 安堵の雄たけびを吐き出してお湯を顔に掛け、至福の時を味わって目を開けた。
「いざ!成敗っ!」甲高い小さな声が浴室にコダマする。
「ひぃっ!」言葉にならない声が喉の奥からこみ上げる。
 と、そこには小さい人が浴槽の角に立ってこちらに剣のような先の尖った物を向けていた。
 小さい人は、所々白く光ったごま塩風の坊主頭に小さな目。時代劇の浪人のような出で立ち。年の頃は50代後半と言った感じだろうか。
 その風貌と先ほどの甲高い声が釣り合わないと、冷静な思考回路が一瞬働く。とて、ありえない現実に慌てて目を瞑り、もう一度ゆっくりと、しかし警戒しながら薄目を開く。すると、小さい人はもう一度オレの反応を確認するように「いざ!成敗!」と繰り返した。
 しかしオレの喉は音を忘れたかのように塞がっている。
「聞こえとるんかぁ?」
 何故か関西弁?
(はぁ)でも(ひぃ)でもなく、言葉に詰まるオレは取り敢えずまた固く目を瞑った。
「幻とちゃうから、消えへんで」
 小さい人が、声を張って主張するように言うので今度は片目だけ開いた。
「身に覚えがあるやろ?」
 そう言って浴槽の狭い角で器用にあぐらをかいて座り込む。
「覚え?」
「成敗される覚えやがなっ!」

1 2 3 4 5 6 7