小説

『ギア』広瀬厚氏(『歯車』)

 それは幻覚とかそう言った類いのものでは決してない。僕がギアになる。と言おうか、この世界が悉くギアとなる。大小無数のギアが嚙み合い回り動いている。一切合切関連し合い、畢竟するに一も多もなく無限大のギアが回る。
 物心ついた頃よりずっと、たびたびそんな感覚…… 実際現象に僕は支配される。卒然としてそれはくる。刹那のような永遠のような。その間、秒針は毫も動かぬ。
 そして僕は、震える。頭身の毛太る。嘔吐する。臆病となる。
 ギア。ギアと言ってみたけれど、それは到底言葉に言い表せない。けれど言葉にしなければここに述べる事ができない。考えて分かるとは考えられない、けれど考えた。そして僕はそれを、誤解を承知に仮でギアとした。

「純! どうしたの?」
「大丈夫か? おい純!」
「えっ… 純ちゃん、純ちゃん」
 まだ僕は幼稚園の年中だったと記憶する。両親と姉と僕の四人夕食を終え、居間でコの字に座卓を囲み、一家団欒テレビを観ていた。確か当時人気のバラエティー番組がやっていた。部屋のなか穏やかに笑い声につつまれていた。
 と、突然僕はギアとなり、そしてギアから覚めた。覚めた途端僕はガタガタ震えた。オエオエと先ほど食べた夕飯を残らず吐いた。急な異変に皆大変驚き心配し僕に声をかけた。けれど幼い僕は、返す言葉がまったく見つからなかった。
 先に僕は物心ついた頃よりと述べたが、両親の話によると赤ん坊の頃から既に、僕には似たような異変があったらしい。両親は僕を医者に見せたが、特にこれと言った異常は見つからず、首をかしげる他なかったと言う。しかし残念ながら僕にその頃の記憶はない。だから敢えて物心ついた頃よりと述べた。そしてその幼稚園のときの出来事が、今でもわりかしはっきりと記憶する、ギアに関する最初のものである。その以前は残念ながら至って曖昧なる記憶しか残っていない。
 周りから見れば発作だと思われる(発作だと言えば発作かもしれないが)僕のそれは、治まればすぐ普段どおりとなり、何事なく日々を過ごした。かのよう周りの目には映った。しかし実際の僕は、外面の震えは止まれど内面、得体の知れぬ恐怖と不安が拭いきれず、それが日々次第に積もり積もっていき、その重圧に耐えがたくなっていった。
 とにかく暗闇を非常に恐れた。いつも背後に徒ならぬ気配を覚えた。原因の分からぬ焦燥が襲い落ち着きを奪った。意味さえ分からぬ答えのまったく出ない問いが、どこからともなく忽然と脳裏に点出され、発狂しそうになった。にもかかわらず僕は年を重ねるにつれ平然を装うすべを得ていき、ギアとなり覚めた後も何事もなかったかのよう皆の前では振舞えるようになった。

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