小説

『ギア』広瀬厚氏(『歯車』)

「えっ、私とまた会ってもらえるんですか… はい」と彼女は首を縦にふった。
 彼女と連絡先を交換するのに携帯電話を手に取ると、不在着信が何件もあった。関係者になにも言わず勝手にライブハウスを飛び出してきた僕だ。当然の事だろう。
 外は雨が本降りとなっていた。僕はタクシーを呼んで、まだ電車が走っているのでそれに乗って帰ると言う彼女を駅まで送り、その後スタッフが待っているライブハウスへ戻った。大変叱られ事情を問われたが、本意は告げず、なんとか適当にごまかし済ませた。それから、今日最後に歌った歯車が大変に好評だったとの話を聞いた。

 彼女と話したあの晩から二日たち、売れない僕は三日ほど完全なオフとなった。昼前いま暮らすアパートを出て、本屋へとのんびり歩く。あの晩以来僕の心は不思議なほど落ち着きを見せている。今日あたり出来れば彼女に連絡を入れたいと思っている。歯車は短編だと聞いた。本を買って読んだら、その感想を彼女に述べる事にしよう。
 十五分ほどで本屋に着いた。あまり大きな本屋ではないが芥川のものなら多分あるだろう。歯車、他二編入った文庫本をすぐ見つけ買った。それから数冊か雑誌をペラペラめくって立ち読んだが、これと言って僕の興味をそそるものが見つからず、棚に戻してそのまま本屋を出た。
 アパートに帰る途中コンビニに寄り、昼に食べるカップ麺とおにぎりを買った。だいたい昼はそんなもんだ。いや朝昼晩とほぼ毎日適当な食事で済ませている。あまり金がないからそんなに外食もできない。たまにはスーパーで食料品を買ったりもするけれど結局コンビニが多い。今日の朝はなにも食べていない。コーヒー一杯だけで済ませた。
 殺風景な自部屋に戻るとすぐに湯を沸かし、カップ麺のふたを開け注いだ。書店の袋を開け文庫本を手にとった。本は開かず表紙を眺め、どんな内容なんだろう、と思っているうちに三分は過ぎた。まるで昼に課された義務をなすかのように、僕はカップ麺とおにぎりを機械的に腹に流しこんだ。
 本を手に安物の硬いベッドに寝転んだ。僕は、うつ伏せになり枕の上で表紙をめくった。
〈レエン・コオト〉の文字がいきなり僕の目に飛びこみ身震いさせた。そしてフラッシュバック。
 黒いレインコートを着た男が、日射し照りつける街の雑踏の中、ゆらりゆらりと歩いている。
 頭にすっぽりフードをかぶり、優に膝下まで伸びる、黒いレインコートの人影の顔は見えない。足もとも見えない。僕は通りを挟んだ歩道の片隅、それをただぼんやりと眺めている。実際男なのか女なのか判然としない。けれど、すぐ、男、と僕の頭に浮かんた。
 どう考えてもおかしい。雨という言葉など蒸発して消えてしまいそうなカンカン照りの中、レインコートはありえない。そればかりかレインコートは漆黒に濡れて乾くことを知らない。時折しずくが上から下へと線を描き流れる。不可思議。
 なのに周りの人間は、誰一人として見向きせず、すれ違う、通り過ぎる、後ろを行く、前を行く…… ただ何事もなく。

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