小説

『ギア』広瀬厚氏(『歯車』)

レインコートの男は、疲れて憂鬱にくれる、僕の目に映る幻なのだろう………。
 歯車。僕の歌う歯車。曲を作った当時、僕の精神はひどく疲弊していた。レインコートを着た男の幻覚…… 幻覚だろうと思う、それをたびたび目にしては、そのたびギアとなり、悶え苦しんだ。その煩悶が歯車と言う曲を生んだ。
 当時二十代前半だった僕は煩悶から逃れるすべとして何度も死を考えた。しかしそのたびごとに、とくに意味などないけれど、三十までは生きよう、ともかく三十まではと思いとどまった。それからもずっと、自分は生きても三十までだ、と思い生きてきた。そしてもうすぐ僕は三十となる。
 僕はベッドの上、本の中の活字に目をやる。ページをめくるにつれ僕は、芥川龍之介の書いた歯車の世界に深く入りこんでいった。その結果読書の苦手な僕なのに、一気に最後まで歯車を読み終えた。
「あぁ」と口からこぼれた。
 この歯車を読んで歯車を作ったような錯覚が起きた。僕が歌う歯車のなかには一度も歯車と言う言葉は出てこない。それどころか普通に聴いてはどう考えても、芥川の歯車に関連されるような詩ではない。けれども確かに芥川の歯車と僕の歯車には合致するところがある。それは僕の精神作用であって、僕以外誰も気づかないと思われる。なのに彼女は……
 僕は彼女に連絡を入れ、明日会える事になった。彼女が暮らす地方までここから少々距離が離れているけれど、構わない明後日までオフなのだから、僕がそちらへ向かう事にした。例の街の駅前で昼過ぎ頃に落ち合う約束となった。
 次の日電車を乗り継ぎ彼女に会いに向かった。朝アパートを出たとき曇っていた空はしだいに晴れていった。ずっと混んでいた電車が、途中乗り換えてからすいて、やっと座る事ができた。僕は窓側の座席につき、電車のなか持参した歯車の入った文庫本を読み返した。歯車の他二編も昨日中に読み終えたが、それらも僕の関心を得るに充分なものだった。それまで習慣のなかった読書が少し好きになっていた。
 僕が前もって彼女に言っておいた時刻とさほど違わず電車は駅に到着した。改札を抜け駅を外に出ると既に彼女はいた。
「こんにちは、待ったかな?」
「いえさっき来たところです。言ってた時間通りですね」
「髪の色変えたんだね」
 エメラルドのような緑だった彼女の髪がルビーのような赤になっていた。いまではすっかり晴れている空の下、太陽の光が反射して美しい。彼女の髪を見て思わず僕は目を細めた。
「おかしいかな?」
「いやとても似合ってる」

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