小説

『鈍い痛み』黒藪千代(『一寸法師』)

 病院のロビーでオレを待っていてくれた部長と顔を合わせる。いつもの穏やかな笑顔だ。奥さんの具合はあまり良くないと聞いていた。オレが部長の立場なら、部下の相手をしている場合ではないと断っていただろう。
 改めて、人として大きな器を感じる。
「そろそろ、来ると思ってたよ。どうだその後は」
「はい」
 40歳を過ぎた中年が、もう決して子供ではない男なのに。情けないと思いながらも、鼻の奥から感情がこみ上げる。
 家族の病気と闘っている部長の方がずっと辛いはずなのにと思うと、オレは奥歯を噛み締めて溢れる気持ちを堪え、これまでの一部始終を話した。
「まぁ、大変だよな。でもな、人間は機械じゃないんだ、間違えたら謝ってまたやり直せばいい」
 部長はそう言って左肩を何度も優しく叩いてくれた。
「いいか、どんなに自分より年下でも、頑張ってくれた相手にはちゃんとありがとうも忘れずに言うんだぞ」
 帰り際、背中を向けたオレに部長の声が追いかけるようについて来た。

 リーダーに抜擢されたからと言って、偉くなった訳ではなかったのに、オレは大事なところを勘違いしていた。
 プロジェクトを成功させたいと思う気持ちは、オレも若い社員も同じなのだから、間違えたら素直に謝る。謝ってやり直せばいい。
 オレに出来ることは素直に謝る環境を作る事だった。
 病院を後にして、社に向かいながら部長の顔を思い出すと、さっきとは違う感情がムクムクと湧いてくるのを感じた。

「みんな、これまで、色々と悪かった。このとおりだ」
 部長の言葉が背中に残っている内にと、急ぎ社に戻って、素直に詫びた。
 スマホをいじっていた若い社員が顔を上げ、給湯室からは数人の女子社員が顔をのぞかせた。同期の田辺も電話の途中でこちらを見る。数十人が揃う事務所の中は、シンッと静まってその注目がオレに向けられていた。
 オレは、誠心誠意頭を下げた。
 クリーム色の床を見つめながら、幾つもの不安が渦巻く。
 大人なのだから、ごめんなさいと謝っても許されない事は沢山ある。謝って済むなら警察はいらないんだと、つい3日前にオレ自身が口にしたと言うのに。都合が良すぎる。オレ、最低だ。
 下げた頭の上から、みんなの息遣いが聞こえる。中傷や、怒りは当然だ。
「あと、少しだ!みんな頑張ろうっ!」

1 2 3 4 5 6 7