小説

『20年前のおやつの時間』岸辺ラクロ【「20」にまつわる物語】

「へぇ、QRコード読み取って入るんだねぇ」と彼女。
 実に気持ちの良い日だった。桜はもちろん咲いていない。梅も五分咲きだ。しかし三月の、3時の、気温が19度の新宿御苑は素晴らしく、カップルと外国人旅行者が春の野原の虫たちみたいにわらわらと湧いていた。その公園内に数いるカップルたちの中で、僕たちが一番べたべたしていて、僕たちが一番馬鹿っぽく見えていたと思う。
「今はさ、エントリーシート提出し始めた頃でしょ?」
「うん、あとは面接がちらほら始まった位かなー」
日本庭園のような場所に出た。曲がりくねった池の上にかかる橋を二人で渡る。光が落ちかかり底が緑の池には真黒なコイがパクパクと水面近くで口を動かしていた。
「うわーー、ちょっと気持ち悪いね。あたし赤とか色の付いたコイは可愛いと思うけど黒いコイは少しやだ」などと寝ぼけたことを池を覗き込んで言う彼女。
「コイ見て思い出した」と僕は言った。
「何を?」
「中国に行った時さ、中国って肉が四種類あるんだよ、牛、豚、鳥、蛙って具合に。でね、中国のスーパーマーケット行ったの。そしたらさ、鮮魚コーナーだったんだけど、蛙がね、この、俺の掌位のウシガエルが透明なプラスチックの箱に山積みになって売ってたの」
「いやーーーーー」
 彼女の悲鳴は作り物で、鳥肌の一つも立っちゃいない。
「ちょっと待って、今写真あるわ」
 池にかかる橋を渡り、小道のベンチに黙って腰掛けると、彼女も隣に座る。
「たっくん何も言わないんだもん」
 彼女は笑った。
 どうしてだろう。あの日に南京のスーパーで撮ったウシガエルの山の写真がどうしても見つからない。携帯を機種変更した際に写真は一つ残らず移したはずなのに。お気に入りの写真だったのに。
 僕は携帯の画面に集中し、彼女は黙っていた。ベンチの前の小道をお婆さん三人のグループが通り過ぎる。
「はぁ、見つからない」
 そう言って携帯をしまった。
「いいよ、見せなくて」
 彼女は僕に寄りかかり、携帯の画面を覗く。
「それよりも、たっくんの前の彼女さんみたい。その中国人の子」
 彼女に携帯を渡して見させた。その子との写真は200枚以上あったし、どれを見たいか分からなかったから。
「はい」
 少し眺めた後で、彼女は僕の手に携帯を押し付けた。少し不機嫌そうに。

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