小説

『20年前のおやつの時間』岸辺ラクロ【「20」にまつわる物語】

 その時に背後から声がした。マーカーのような緑の色をしたジャンパーを着たおじさんがこちらへ向かってくる。
「もう、とっくに閉園してますよ。残ってるのはあなたたちだけです」
 時計を見ると4時50分だった。僕は2時間ほど彼女とキスをしているつもりだったが、実際には30分ほどだった。
「すいません。今でます」
 僕らは立ち上がって、コートを着てバッグを背負った。
「ここは4時半閉園なんですよ。知らなかったんですか?」
「すいません。知りませんでした」
 彼女が返事をした。おじさんはまだ不機嫌そうだった。

 誰もいない、貸し切りの新宿御苑を二人で手を繋いで歩いていると、夢のような気がしてくる。今日の全てが夢で終わってもそれでいい、と思えない程には、僕の彩世に対する思いは膨らんでいた。
「彩世はさ、何時ごろ生まれたか分かる?」
「分かる。山口の岩国病院で、3時頃」
「朝の?」
「昼の3時。おやつの時間に生まれたの」
「じゃあ20年前のおやつの時間に生まれたのか」
「そうだよ」
 どことなく古びた新宿御苑前駅に向かう道のりは、タイムスリップをしたような感覚を抱かせる。
「タイムスリップしたいなぁ」と呟いた。
「タイムスリップ?」
「うん、タイムスリップしてね、彩世の生まれたところを写真に撮ってくるんだ。そしてそれを彩世に見せてあげる。あ、でも彩世のお父さんに殴られるだろうな。なんだ君は、って『違うんです、違うんです。20年後の彼女に見せたいだけなんです』って言ったら分かってくれるかな」
「あはは」
 彩世の歯並びがいいことに今更気が付いた。

 新宿御苑前駅出口から丸の内線の改札まで下り階段を手を繋いで歩く。サラリーマンたちは少しも僕たちのことなど気にかけずに、俯いて歩いている。
「ねぇ、この後有楽町で友達と会うんだ。お金払うからそこまで行ってよ」
 彼女は改札の前で僕に言った。大丈夫だよ。自分のスイカで払うよ、と言ったのに切符を買ってくれて、すました顔をして僕に切符を手渡した。渡された切符を手に並んで改札に入った。のだが、彼女のパスモは残高が足りなかったらしく、ビンゴ――ン、という音と共に入場を拒まれた彼女は「わーーーっ」と小さく声を上げて、それがちょっと、いやけっこうカッコ悪くて。その時心から彼女のことを好きだと思った。

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