小説

『20年前のおやつの時間』岸辺ラクロ【「20」にまつわる物語】

 その日なぜ新宿御苑に行きたかったのか、と聞かれればそれは天気が良かったからに他ならない。本当にそれだけの理由だった。雨だったり曇りだったり、気温があと五度低くても行こうとは思わなかっただろう。昼の十二時前に起きて、部屋の中にいても気持ちいいと思えるような三月の日だった。けれども多くの人間と同じく快楽に貪欲な僕は、彼女にメールを打った。
―――就活お疲れ様。(^^♪ 公園に行きたいなぁ。新宿御苑とか。 二時半は大丈夫?
 十分と経たない内に彼女からの返信は来た。
―――大丈夫だよーーーー
 初めての絵文字のないメールだった。彼女の文面には、僕の昨日のメールの内容に対する気持ちが露骨に反映されていた。少なくとも僕はそう感じた。
 正直、絵文字のないメールをもらったことでかなり気持ちが揺らいだ。行くか行かないか、迷った。今ならまだ引き返すことができる。キャンセル料だって発生しない。一人で公園を回るというのも悪くないだろう。結局30分迷った挙句、行くことにした。理由は、やっぱり天気が良かったから。たぶん天気がもう少し悪かったら虫のように湧いてくるカップルもそれほど多くはないと僕は予想して、彼女と一緒に行くことを決断したりしなかっただろう。
―――ありがとう(^^♪ 一つ用事を済ませてから行くから、三時に新宿御苑前駅でいいかな?
 用事なんてなかった。ただ僕は家を出るまでにあと少しだけゆっくりしたかっただけだった。
―――あれ、二時半じゃなくて? 一応りょーかい。
―――うん。三時で大丈夫カナーー((+_+)) 交換留学の追加募集に申し込もうと思ってるから一応三時で。 会えるの楽しみにしてる(^^♪
 嘘だった。正確に言うと交換留学の申し込みは昨日までで、僕は一昨日夜なべして仕上げた。
―――わかった! たっくんまた留学するの? すごい…… 17時15分までに有楽町行かなきゃいけないからそこだけごめんね汗
 携帯を服の山の上に放り投げた。後に予定の詰まっているデートほどがっかりするものも、そうないと思う。
 結局そのメールには返信することなく一時間が過ぎて、僕はほぼ一年ぶりにビームスで買ったジーンズを履いた。デートのために僕が持っている数少ない一張羅だった。バックに「The Catcher in the Rye」と「初恋温泉」も入れた。

 
 平日午後二時の東急東横線は空いていて、窓から太陽の光が斜めに降り注いでいる。電車はかくあるべきだ、と思う。
昔、田園都市線の溝の口駅で見た光景を思い出す。溝の口駅は朝だけでなく、夕方も殺人的に混み合う。ある日のいつもと変わらぬ夕方、明らかに観光客の外国人の一家がいた。彼らは僕らの乗っている、ぎゅうぎゅう詰めの電車をカシカシと音を立てて笑いながら写真を撮っていた。娘と思われる女の子が携帯を両手に持っていそいそと何かを打ち込んでいた。人間が出荷されてる、とでも書いていたのだろうか。僕だったらそう書くし、満員電車に乗るたびにそう思う。僕たちが出荷されている。
 リュックからThe Catcher in the Ryeを取り出して読み始めた時に、彼女に聞かなきゃいけないことが一つあることに気が付いた。けれどもちらほらと電車に座っている回りの人たちにすぐに集中力を無くしたと思われたくなくて、そのまま数ページ読み続けた。

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