小説

『キリエの匣』三觜姫皙(『クネヒト・ループレヒト(黒いサンタクロース)』)

「え、早退しても良いかって?」
 クロエに再会した後、桐恵は事務室へと戻ってきた。滅多にないどころか、今までになかった桐恵の突然の申し出に柊は聞き返した。
「ええ、でも、難しいようなら今日は定時で上がらせていただきたいんです」
「あ、難しいってことじゃなくて! 毎日残業の九十九さんが珍しいなぁって思って。勿論、構わないですし、もっと早退や年休を使ってくださいね。今はまだ年明け前で落ち着いているし、嘉島さんがいれば大丈夫だと思います」
 その嘉島が一番信用できないのだが、と桐恵は思うと、柊に気づかれないようにマスク越しに息を吐いた。
 というのも、通常であれば桐恵の就業時間は10時から17時までなのだが、嘉島がよく仕事を休んだり、早退したりするので、桐恵は連日のように残業だった。それは主に子ども関係のことで、桐恵も仕方ないことだと思うのだが、仕方ないと流せなかったのは嘉島の言動だった。
「昨日はまぁの方が熱を出してさ。私も2日寝てないんだよね。だから、何だか頭痛くて。でも、自分の体調不良じゃ帰れないでしょ? またあの子達、熱出るかも知れないし。はあ、それにしても、頭痛い! 痛い! 痛い!」
 繰り返される嘉島の「痛い」発言に。桐恵はいつも仕事に集中できず、桐恵のマスクの下の唇は歪んでいた。
「はい、どうぞ」
 桐恵が思い返している間に、柊は桐恵の有休などを管理する休暇簿へ判を捺してくれる。桐恵は柊から休暇簿を受け取ると、またマスクの上からでも分かるように目を細めた。
「すみません。お忙しいところ、ありがとうございました」
 桐恵が主任のデスクから自身のデスクへ戻ると、先程まで耳を騒がせていた嘉島はまた電話をしていた。どうやら、電話先は先程とは違い、保育園からのようだった。嘉島が一方的に話す甲高い声々を総合すると、双子の娘のうちの一人がまた熱を出たらしく、保育園から迎えに来てくれと言われているらしい。
 双子の娘のうちの1人‥確か、麻倫(まろん)だったか、来澪(くるみ)だったか。だが、桐恵にはもはや関係のないことだった。
 桐恵はデスクの上をサッと片づけると、今日1日で、自分がする仕事が書かれたメモを不要になったとばかりにゴミ箱へ捨てる。鞄に手にし、ドアの方へ向かう途中。嘉島の目が「待って、待って」と自分に向けられるのが分かった。しかしながら、それも不要になったとばかりに捨て置き、「お先に失礼します」と事務室を後にした。

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