小説

『キリエの匣』三觜姫皙(『クネヒト・ループレヒト(黒いサンタクロース)』)

 クロエの言葉は滑らかなのに対して、桐恵の言葉はやっと反芻したような、引っかかったようなものだった。反芻して、考えて、口の外に出した思いだった。
「それは本当に……私が決めてもいいこと、なんですか?」
 今ならまだクロエに車を停めてもらって、20年前のように引き返すことができる、と桐恵は直感として思った。大体のケースであれば、引き返すべきだし、そうすべきなのかも知れないとも。
 でも、良い年になっても、結婚相手も子どももいない桐恵を疎ましく思う母親。自分のことばかりで、いわゆる奥さんという存在が欲しいだけのお見合い相手。独身や子どもがいない人間に配慮のない同僚のおばさん。優しいけど、それだけの主任。それに、本当の広さが分からない窓越しの青空。
 そんな存在に20年間、辟易して、疲れてきってしまった桐恵には何の未練もなかった。
「何もかもクロエさんにはお見通しかも知れないけど、私は保育器の中で育ったんです。それから、大きくなって保育器を出ると、家とか保育園とか学校の中で過ごすようになって」
 ぽつりとぽつりと。桐恵が呟くと、クロエは桐恵の声を掻き消さないように静かにアクセルを踏んだ。
「仮に母や職場の2人が言うように、檜山さんと結婚して自分の子どもや義理のお母さん達と家で過ごして。それから、いつ死ぬかは分からないけど、もし、長生きできたら、老人ホームか何かで暮らして。最後はシワやシミだらけになって、動けなくなって、脳が止まったら棺桶に入って」
「カンオケ? ああ、キリやヒノキで作った、死んだ人間を入れる?」
「はい。まぁ、今は色んな木で作られているんじゃないですか? 木も高くなっていると思うし」
「って、ごめんね。話の腰、折っちゃって。続けて」
「えーと、つまり、何が言いたいかと言うと、私は……いいえ、大抵の人は生まれてから死ぬまで何かの匣のような何かに入っていて、私はそれが虚しかったのかも知れないです。目の前に広がる空の広さも正しくは分からない。それが人生だと突きつけられているみたいに証明もできなくて」
「それが人生だと突きつけられているみたいに否定もできなくて?」
「ふふ。そう否定できなくて。だから、もし、仮に、クロエさんも私を匣に閉じ込めるのだとしても、それはそれで悪くないです。だって」
 同じ匣の中なら居心地が良い方を選びたいから、と桐恵は締めくくる。ぽつりぽつりと語られた桐恵の意思にクロエはそう、とだけ返した。

 クネヒトルプレヒトのクロエ。通称、黒いサンタクロースのクロエは赤いサンタクロースの衣装を黒に替えた洋服を着込んでいる。

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