小説

『キリエの匣』三觜姫皙(『クネヒト・ループレヒト(黒いサンタクロース)』)

「ふぅ」
 柊には食事を理由に事務室のある本館を出たが、桐恵は別館であるL棟へと向かった。通称L棟。その棟には教授の研究室と実験室が並び、屋上へ上ると、天体観測のできる簡易ドームがあるらしい。ただ、今は講義が行われている部屋は1つもなかった。それが無人の建物を歩いているようにも思え、嘉島の声に気が立っていた桐恵には居心地が良い。
 少しだけ気を良くした桐恵はその建物でも特に人気のない場所へ足を進ませた。
「寒っ」
 屋上手前の踊り場まで、階段を上った桐恵を大きなガラス窓が出迎える。大きな窓の外にはその窓よりも大きいと思われる青空が広がっていた。
「空って大きいのかな?」
 桐恵は階段の手摺に背を預けながら、そんなことを息と一緒に吐く。寒すぎて白い息が出るかも、と桐恵は思ったが、流石に室内なのか口から出た息は白くはなかった。
「まぁ、この窓よりは大きいんだろうけど」
 もちろん人間として29年も生きてきて、窓より空が大きいことが分からない桐恵ではない。
しかしながら、窓越しの空ばかり見ていると、空というものは実はこの窓と同じくらいの大きさしかないのではないか、と桐恵は思うのだ。そして、目に見えているものは意外と証明がしづらいとも思うのだ。
 桐恵の視線は窓より空が大きいという証明を諦めたように、窓より大きいだろう空から自身の指先へと移る。手袋をしていない桐恵の指はガサガサで、アカギレやサカムケが目立つ。スキンケアをする為の薬用クリームも好きにはなれず、マニュキアも煩わしい桐恵は母の言葉を思い出した。
「とても若い娘の手には見えない。檜山さんもひくし、幸せも遠のくよ」
 それは嘉島の存在とは別にストレスとなっている存在だった。
 ちなみに、檜山というのは1か月程前に、桐恵が見合いした男性の名前だった。母が意気揚々と持ってきた身上書によると、檜山は何軒もの飲食店を繁盛させているやり手のオーナーらしい。だが、桐恵よりも15歳も上で、40代半ばとのことだった。おまけに、今度彼が新しく経営するレストランで会ったのだが、話をしていても自分が経営するレストランをはじめ、自分のことばかり話しているような印象を受けた。

「仕事は熱心だし、学歴と身長はあんまり高くないけど、良い人じゃない? 必要ならお手伝いさんも雇うから家事もしなくて良いし、たまに簡単な仕事を手伝ってくれれば良いなんて!」
「簡単な仕事……ね」

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